か」
「いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」
 兄は糸織の小袖《こそで》に鉄御納戸《てつおなんど》の博多《はかた》の羽織を着ている。
「今日は――留守ですか」
「はあ、たった今しがた出ました。おっつけ帰りましょう。どうぞ御緩《ごゆっ》くり」と例の火鉢を出す。
「もう御構《おかまい》なさるな。――どうもなかなか寒い」と手を翳《かざ》す。
「だんだん押し詰りましてさぞ御忙《おいそ》がしゅう、いらっしゃいましょう」
「へ、ありがとう。毎年暮になると大頭痛、ハハハハ」と笑った。世の中の人はおかしい時ばかり笑うものではない。
「でも御忙がしいのは結構で……」
「え、まあ、どうか、こうかやってるんです。――時に道也はやはり不相変《あいかわらず》ですか」
「ありがとう。この方はただ忙がしいばかりで……」
「結構でないかね。ハハハハ。どうも困った男ですねえ、御政《おまさ》さん。あれほど訳《わけ》がわからないとまでは思わなかったが」
「どうも御心配ばかり懸《か》けまして、私もいろいろ申しますが、女の云う事だと思ってちっとも取り上げませんので、まことに困り切ります」
「そうでしょう、私《わたし》の云う事だって聞かないんだから。――わたしも傍《そば》にいるとつい気になるから、ついとやかく云いたくなってね」
「ごもっともでございますとも。みんな当人のためにおっしゃって下さる事ですから……」
「田舎《いなか》にいりゃ、それまでですが、こっちにこうしていると、当人の気にいっても、いらなくっても、やっぱり兄の義務でね。つい云いたくなるんです。――するとちっとも寄りつかない。全く変人だね。おとなしくして教師をしていりゃそれまでの事を、どこへ行っても衝突して……」
「あれが全く心配で、私もあのためには、どんなに苦労したか分りません」
「そうでしょうとも。わたしも、そりゃよく御察し申しているんです」
「ありがとうございます。いろいろ御厄介《ごやっかい》にばかりなりまして」
「東京へ来てからでも、こんなくだらん事をしないでも、どうにでも成るんでさあ。それをせっかく云ってやると、まるで取り合わない。取り合わないでもいいから、自分だけ立派にやって行けばいい」
「それを私も申すのでござんすけれども」
「いざとなると、やっぱりどうかしてくれと云うんでしょう」
「まことに御気の毒さまで……」
「いえ、あなたに何も云うつもりはない。当人がさ。まるで無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって筆耕《ひっこう》の真似《まね》をしているものが、どこの国にいるものですか。あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか」
「自分だけはあれでなかなかえらいつもりでおりますから」
「ハハハハえらいつもりだって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃしようがない」
「近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います」
「何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたってどこが面白い。一文にゃならず、人からは擯斥《ひんせき》される。つまり自分の錆《さび》になるばかりでさあ」
「少しは人の云う事でも聞いてくれるといいんですけれども」
「しまいにゃ人にまで迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私《わたし》を呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無暗《むやみ》に不穏な言論をして富豪などを攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、さんざん叱られたんです」
「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」
「そりゃ、会社なんてものは、それぞれ探偵が届きますからね」
「へえ」
「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣《きづかい》はないが、課長からそう云われて見ると、放《ほう》って置けませんからね」
「ごもっともで」
「それで実は今日は相談に来たんですがね」
「生憎《あいにく》出まして」
「なに当人はいない方がかえっていい。あなたと相談さえすればいい。――で、わたしも今途中でだんだん考えて来たんだが、どうしたものでしょう」
「あなたから、とくと異見《いけん》でもしていただいて、また教師にでも奉職したら、どんなものでございましょう」
「そうなればいいですとも。あなたも仕合《しあわ》せだし、わたしも安心だ。――しかし異見《いけん》でおいそれと、云う通りになる男じゃありませんよ」
「そうでござんすね。あの様子じゃ、とても駄目でございましょうか」
「わたしの鑑定じゃ、とうてい駄目だ。――それでここに一つの策があるんだが、どうでしょう当人の方から
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