しょう」
「厭《いや》なものに頼んだって仕方がないさ」
「あなたは、それだから困るのね。どうせ、あんな、豪《えら》い方《かた》になれば、すぐ、おいそれと書いて下さる事はないでしょうから……」
「あんな豪い方って――足立がかい」
「そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――しかし向《むこう》はともかくも大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう」
「そうか、それじゃおおせに従って、もう一返《いっぺん》頼んで見ようよ。――時に何時かな。や、大変だ、ちょっと社まで行って、校正をしてこなければならない。袴《はかま》を出してくれ」
道也先生は例のごとく茶の千筋《せんすじ》の嘉平治《かへいじ》を木枯《こがらし》にぺらつかすべく一着して飄然《ひょうぜん》と出て行った。居間の柱時計がぼんぼんと二時を打つ。
思う事積んでは崩《くず》す炭火《すみび》かなと云う句があるが、細君は恐らく知るまい。細君は道也先生の丸火桶《まるひおけ》の前へ来て、火桶の中を、丸るく掻きならしている。丸い火桶だから丸く掻きならす。角な火桶なら角に掻きならすだろう。女は与えられたものを正しいものと考える。そのなかで差し当りのないように暮らすのを至善《しぜん》と心得ている。女は六角の火桶を与えられても、八角の火鉢を与えられても、六角にまた八角に灰を掻きならす。それより以上の見識は持たぬ。
立ってもおらぬ、坐ってもおらぬ、細君の腰は宙に浮いて、膝頭《ひざがしら》は火桶の縁《ふち》につきつけられている。坐《す》わるには所を得ない、立っては考えられない。細君の姿勢は中途半把《ちゅうとはんぱ》で、細君の心も中途半把である。
考えると嫁に来たのは間違っている。娘のうちの方が、いくら気楽で面白かったか知れぬ。人の女房はこんなものと、誰か教えてくれたら、来ぬ前によすはずであった。親でさえ、あれほどに親切を尽してくれたのだから、二世《にせ》の契《ちぎ》りと掟《おきて》にさえ出ている夫は、二重にも三重にも可愛がってくれるだろう、また可愛がって下さるよと受合われて、住み馴れた家《いえ》を今日限りと出た。今日限りと出た家《うち》へ二度とは帰られない。帰ろうと思ってもおとっさんもお母《っか》さんも亡くなってしまった。可愛がられる目的《あて》ははずれて、可愛がってくれる人はもうこの世にいない。
細君は赤い炭団《たどん》の、灰の皮を剥《む》いて、火箸《ひばし》の先で突《つ》つき始めた。炭火なら崩《くず》しても積む事が出来る。突《つっ》ついた炭団は壊《こわ》れたぎり、丸い元の姿には帰らぬ。細君はこの理を心得ているだろうか。しきりに突ついている。
今から考えて見ると嫁に来た時の覚悟が間違っている。自分が嫁に来たのは自分のために来たのである。夫のためと云う考はすこしも持たなかった。吾《わ》が身が幸福になりたいばかりに祝言《しゅうげん》の盃《さかずき》もした。父、母もそのつもりで高砂《たかさご》を聴いていたに違ない。思う事はみんなはずれた。この頃の模様を父、母に話したら定めし道也はけしからぬと怒《おこ》るであろう。自分も腹の中では怒っている。
道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それはこっちで云いたい事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、したがって夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。だから夫に自分の云う通りになれと云う。夫はけっして聞き入れた事がない。家庭の生涯《しょうがい》はむしろ女房の生涯である。道也は夫の生涯と心得ているらしい。それだから治《おさ》まらない。世間の夫は皆道也のようなものかしらん。みんな道也のようだとすれば、この先結婚をする女はだんだん減るだろう。減らないところで見るとほかの旦那様は旦那様らしくしているに違ない。広い世界に自分一人がこんな思《おもい》をしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳《わけ》には行かぬ。しかし連れ添う夫がこんなでは、臨終まで本当の妻と云う心持ちが起らぬ。これはどうかせねばならぬ。どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きている甲斐《かい》がない。――細君はこう思案しながら、火鉢をいじくっている。風が枯芭蕉《かればしょう》を吹き倒すほど鳴る。
表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
道也の兄は会社の役員である。その会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関へ脱いで座敷へ這入《はい》ってくる。
「だいぶ吹きますね」と薄い更紗《さらさ》の上へ坐って抜け上がった額《ひたい》を逆《さか》に撫《な》でる。
「御寒いのによく」
「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」
「今御帰り掛けです
前へ
次へ
全56ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング