弐百の金は這入《はい》る都合だとおっしゃったじゃありませんか」
「うん言った。言ったには相違ないが、売れない」
「困るじゃござんせんか」
「困るよ。御前《おまえ》よりおれの方が困る。困るから今考えてるんだ」
「だって、あんなに骨を折って、三百枚も出来てるものを――」
「三百枚どころか四百三十五頁ある」
「それで、どうして売れないんでしょう」
「やっぱり不景気なんだろうよ」
「だろうよじゃ困りますわ。どうか出来ないでしょうか」
「南溟堂《なんめいどう》へ持って行った時には、有名な人の御序文があればと云うから、それから足立《あだち》なら大学教授だから、よかろうと思って、足立にたのんだのさ。本も借金と同じ事で保証人がないと駄目だぜ」
「借金は借りるんだから保証人もいるでしょうが――」と妻君頭のなかへ人指《ひとさし》ゆびを入れてぐいぐい掻《か》く。束髪《そくはつ》が揺れる。道也はその頭を見ている。
「近頃の本は借金同様だ。信用のないものは連帯責任でないと出版が出来ない」
「本当につまらないわね。あんなに夜遅くまでかかって」
「そんな事は本屋の知らん事だ」
「本屋は知らないでしょうさ。しかしあなたは御存じでしょう」
「ハハハハ当人は知ってるよ。御前も知ってるだろう」
「知ってるから云うのでさあね」
「言ってくれても信用がないんだから仕方がない」
「それでどうなさるの」
「だから足立の所へ持って行ったんだよ」
「足立さんが書いてやるとおっしゃって」
「うん、書くような事を云うから置いて来たら、またあとから書けないって断わって来た」
「なぜでしょう」
「なぜだか知らない。厭《いや》なのだろう」
「それであなたはそのままにして御置きになるんですか」
「うん、書かんのを無理に頼む必要はないさ」
「でもそれじゃ、うちの方が困りますわ。この間|御兄《おあにい》さんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから」
「おれもその方を埋《う》めるつもりでいたんだが――売れないから仕方がない」
「馬鹿馬鹿しいのね。何のために骨を折ったんだか、分りゃしない」
道也先生は火桶《ひおけ》のなかの炭団《たどん》を火箸《ひばし》の先で突《つっ》つきながら「御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ」と云った。妻君はだまってしまう。ひゅうひゅうと木枯《こがらし》が吹く。玄関の障子《しょうじ》の破れが紙鳶《たこ》のうなりのように鳴る。
「あなた、いつまでこうしていらっしゃるの」と細君は術《じゅつ》なげに聞いた。
「いつまでとも考はない。食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか」
「二言目《ふたことめ》には食えれば食えればとおっしゃるが、今こそ、どうにかこうにかして行きますけれども、このぶんで押して行けば今に食べられなくなりますよ」
「そんなに心配するのかい」
細君はむっとした様子である。
「だって、あなたも、あんまり無考《むかんがえ》じゃござんせんか。楽に暮せる教師の口はみんな断《ことわ》っておしまいなすって、そうして何でも筆で食うと頑固《がんこ》を御張りになるんですもの」
「その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい」
「食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「だって食べられないんですもの」
「たべられるよ」
「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性《しょう》に合わないんですよ」
「よくそんな事がわかるな」
細君は俯向《うつむ》いて、袂《たもと》から鼻紙を出してちいんと鼻をかんだ。
「私ばかりじゃ、ありませんわ。御兄《おあにい》さんだって、そうおっしゃるじゃありませんか」
「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」
「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にしていらっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢《ひばち》の灰を丁寧に掻《か》きならす。中から二寸|釘《くぎ》が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛《ほう》り出した。
庭には何にもない。芭蕉《ばしょう》がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をしている。地面は皮が剥《む》けて、蓆《むしろ》を捲《ま》きかけたように反《そ》っくり返っている。道也先生は庭の面《おもて》を眺《なが》めながら
「だいぶ吹いてるな」と独語《ひとりごと》のように云った。
「もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうで
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