雑誌や新聞をやめて、教師になりたいと云う気を起させるようにするのは」
「そうなれば私は実にありがたいのですが、どうしたら、そう旨《うま》い具合に参りましょう」
「あのこの間中《あいだじゅう》当人がしきりに書いていた本はどうなりました」
「まだそのままになっております」
「まだ売れないですか」
「売れるどころじゃございません。どの本屋もみんな断わりますそうで」
「そう。それが売れなけりゃかえって結構だ」
「え?」
「売れない方がいいんですよ。――で、せんだってわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう」
「たしかこの月の十五日だと思います」
「今日が十一日だから。十二、十三、十四、十五、ともう四日《よっか》ですね」
「ええ」
「あの方を手厳《てきび》しく催促させるのです。――実はあなただから、今打ち明けて御話しするが、あれは、わたしが印を押している体《たい》にはなっているが本当はわたしが融通したのです。――そうしないと当人が安心していけないから。――それであの方を今云う通り責める――何かほかに工面《くめん》の出来る所がありますか」
「いいえ、ちっともございません」
「じゃ大丈夫、その方でだんだん責めて行く。――いえ、わたしは黙って見ている。証文の上の貸手が催促に来るのです。あなたも済《すま》していなくっちゃいけません。――何を云っても冷淡に済ましていなくっちゃいけません。けっしてこちらから、一言《ひとこと》も云わないのです。――それで当人いくら頑固《がんこ》だって苦しいから、また、わたしの方へ頭を下げて来る。いえ来なけりゃならないです。その、頭を下げて来た時に、取って抑《おさ》えるのです。いいですか。そうたよって来るなら、おれの云う事を聞くがいい。聞かなければおれは構わん。と云いやあ、向《むこう》でも否《いや》とは云われんです。そこでわたしが、御政《おまさ》さんだって、あんなに苦労してやっている。雑誌なんかで法螺《ほら》ばかり吹き立てていたって始まらない、これから性根《しょうね》を入《い》れかえて、もっと着実な世間に害のないような職業をやれ、教師になる気なら心当りを奔走《ほんそう》してやろう、と持《も》ち懸《か》けるのですね。――そうすればきっと我々の思わく通りになると思うが、どうでしょう」
「そうなれば私はどんなに安心が出来るか知れません」
「やって見ましょうか」
「何分宜《なにぶんよろ》しく願います」
「じゃ、それはきまったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら清輝館《せいきかん》の前に、大きな広告があって、わたしは吃驚《びっくり》させられましたよ」
「何の広告でござんす」
「演説の広告なんです。――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ」
「へえ、ちっとも存じませんでした」
「それで題が大きいから面白い、現代の青年に告ぐと云うんです。まあ何の事やら、あんなものの云う事を聞きにくる青年もなさそうじゃありませんか。しかし剣呑《けんのん》ですよ。やけになって何を云うか分らないから。わたしも課長から忠告された矢先だから、すぐ社へ電話をかけて置いたから、まあ好《い》いですが、何なら、やらせたくないものですね」
「何の演説をやるつもりでござんしょう。そんな事をやるとまた人様《ひとさま》に御迷惑がかかりましょうね」
「どうせまた過激な事でも云うのですよ。無事に済めばいいが、つまらない事を云おうものなら取って返しがつかないからね。――どうしてもやめさせなくっちゃ、いけないね」
「どうしたらやめるでござんしょう」
「これもよせったって、頑固《がんこ》だから、よす気遣《きづかい》はない。やっぱり欺《だま》すより仕方がないでしょう」
「どうして欺したらいいでしょう」
「そうさ。あした時刻にわたしが急用で逢《あ》いたいからって使をよこして見ましょうか」
「そうでござんすね。それで、あなたの方へ参るようだと宜《よろ》しゅうございますが……」
「聞かないかも知れませんね。聞かなければそれまでさ」
 初冬《はつふゆ》の日はもう暗くなりかけた。道也先生は風のなかを帰ってくる。

        十一

 今日もまた風が吹く。汁気《しるけ》のあるものをことごとく乾鮭《からさけ》にするつもりで吹く。
「御兄《おあにい》さんの所から御使です」と細君が封書を出す。道也は坐ったまま、体《たい》をそらして受け取った。
「待ってるかい」
「ええ」
 道也は封を切って手紙を読み下す。やがて、終りから巻き返して、再び状袋のなかへ収めた。何にも云わない。
「何か急用ででもござんすか」
 道也は「うん」と云いながら、墨を磨《す》って、何かさらさらと返事を認《したた》めている。
「何の御用ですか」
「ええ? ちょっと待った。書いてしまうから」
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