て動かすが道也先生の天職である。高く、偉《おお》いなる、公《おおや》けなる、あるものの方《かた》に一歩なりとも動かすが道也先生の使命である。道也先生はその他を知らぬ。
高柳君はそうは行《ゆ》かぬ。道也先生の何事をも知らざるに反して、彼は何事をも知る。往来の人の眼つきも知る。肌寒《はださむ》く吹く風の鋭どきも知る。かすれて渡る雁《かり》の数も知る。美くしき女も知る。黄金《おうごん》の貴《たっと》きも知る。木屑《きくず》のごとく取り扱わるる吾身《わがみ》のはかなくて、浮世の苦しみの骨に食い入る夕々《ゆうべゆうべ》を知る。下宿の菜《さい》の憐れにして芋《いも》ばかりなるはもとより知る。知り過ぎたるが君の癖にして、この癖を増長せしめたるが君の病である。天下に、人間は殺しても殺し切れぬほどある。しかしこの病を癒《なお》してくれるものは一人もない。この病を癒してくれぬ以上は何千万人いるも、おらぬと同様である。彼は一人坊《ひとりぼ》っちになった。己《おの》れに足りて人に待つ事なき呑気《のんき》な一人坊っちではない。同情に餓《う》え、人間に渇《かつ》してやるせなき一人坊っちである。中野君は病気と云う、われも病気と思う。しかし自分を一人坊っちの病気にしたものは世間である。自分を一人坊っちの病気にした世間は危篤《きとく》なる病人を眼前に控えて嘯《うそぶ》いている。世間は自分を病気にしたばかりでは満足せぬ。半死の病人を殺さねばやまぬ。高柳君は世間を呪《のろ》わざるを得ぬ。
道也先生から見た天地は人のためにする天地である。高柳君から見た天地は己れのためにする天地である。人のためにする天地であるから、世話をしてくれ手がなくても恨《うらみ》とは思わぬ。己れのためにする天地であるから、己れをかまってくれぬ世を残酷と思う。
世話をするために生れた人と、世話をされに生れた人とはこれほど違う。人を指導するものと、人にたよるものとはこれほど違う。同じく一人坊っちでありながらこれほど違う。高柳君にはこの違いがわからぬ。
垢染《あかじ》みた布団《ふとん》を冷《ひや》やかに敷いて、五分刈《ごぶが》りが七分ほどに延びた頭を薄ぎたない枕の上に横《よこた》えていた高柳君はふと眼を挙《あ》げて庭前《ていぜん》の梧桐《ごとう》を見た。高柳君は述作をして眼がつかれると必ずこの梧桐を見る。地理学教授法を訳して、くさくさすると必ずこの梧桐を見る。手紙を書いてさえ行き詰まるときっとこの梧桐を見る。見るはずである。三坪ほどの荒庭《あれにわ》に見るべきものは一本の梧桐を除いてはほかに何にもない。
ことにこの間から、気分がわるくて、仕事をする元気がないので、あやしげな机に頬杖《ほおづえ》を突いては朝な夕なに梧桐《ごとう》を眺《なが》めくらして、うつらうつらとしていた。
一葉《いちよう》落ちてと云う句は古い。悲しき秋は必ず梧桐から手を下《くだ》す。ばっさりと垣にかかる袷《あわせ》の頃は、さまでに心を動かす縁《よすが》ともならぬと油断する翌朝《よくあさ》またばさりと落ちる。うそ寒いからと早く繰る雨戸の外にまたばさりと音がする。葉はようやく黄ばんで来る。
青いものがしだいに衰える裏から、浮き上がるのは薄く流した脂《やに》の色である。脂は夜ごとを寒く明けて、濃く変って行く。婆娑たる命は旦夕《たんせき》に逼《せま》る。
風が吹く。どこから来るか知らぬ風がすうと吹く。黄ばんだ梢《こずえ》は動《ゆる》ぐとも見えぬ先に一葉二葉《ひとはふたは》がはらはら落ちる。あとはようやく助かる。
脂は夜ごとの秋の霜《しも》にだんだん濃《こ》くなる。脂のなかに黒い筋が立つ。箒《ほうき》で敲《たた》けば煎餅《せんべい》を折るような音がする。黒い筋は左右へ焼けひろがる。もう危うい。
風がくる。垣の隙《すき》から、椽《えん》の下から吹いてくる。危ういものは落ちる。しきりに落ちる。危ういと思う心さえなくなるほど梢《こずえ》を離れる。明らさまなる月がさすと枝の数が読まれるくらいあらわに骨が出る。
わずかに残る葉を虫が食う。渋色《しぶいろ》の濃いなかにぽつりと穴があく。隣りにもあく、その隣りにもぽつりぽつりとあく。一面が穴だらけになる。心細いと枯れた葉が云う。心細かろうと見ている人が云う。ところへ風が吹いて来る。葉はみんな飛んでしまう。
高柳君がふと眼を挙げた時、梧桐はすべてこれらの径路《けいろ》を通り越して、から坊主《ぼうず》になっていた。窓に近く斜《なな》めに張った枝の先にただ一枚の虫食葉《むしくいば》がかぶりついている。
「一人坊《ひとりぼ》っちだ」と高柳君は口のなかで云った。
高柳君は先月あたりから、妙な咳《せき》をする。始めは気にもしなかった。だんだん腹に答えのない咳が出る。咳だけではない。熱も出る
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