。出るかと思うとやむ。やんだから仕事をしようかと思うとまた出る。高柳君は首を傾けた。
医者に行って見てもらおうかと思ったが、見てもらうと決心すれば、自分で自分を病気だと認定した事になる。自分で自分の病気を認定するのは、自分で自分の罪悪を認定するようなものである。自分の罪悪は判決を受けるまでは腹のなかで弁護するのが人情である。高柳君は自分の身体《からだ》を医師の宣告にかからぬ先に弁護した。神経であると弁護した。神経と事実とは兄弟であると云う事を高柳君は知らない。
夜になると時々寝汗《ねあせ》をかく。汗で眼がさめる事がある。真暗《まっくら》ななかで眼がさめる。この真暗さが永久続いてくれればいいと思う。夜があけて、人の声がして、世間が存在していると云う事がわかると苦痛である。
暗いなかをなお暗くするために眼を眠《ねむ》って、夜着《よぎ》のなかへ頭をつき込んで、もうこれぎり世の中へ顔が出したくない。このまま眠りに入って、眠りから醒《さ》めぬ間《ま》に、あの世に行ったら結構だろうと考えながら寝る。あくる日になると太陽は無慈悲にも赫奕《かくえき》として窓を照らしている。
時計を出しては一日に脈《みゃく》を何遍となく験《けん》して見る。何遍験しても平脈《へいみゃく》ではない。早く打ち過ぎる。不規則に打ち過ぎる。どうしても尋常には打たない。痰《たん》を吐《は》くたびに眼を皿のようにして眺《なが》める。赤いものの見えないのが、せめてもの慰安である。
痰《たん》に血の交《まじ》らぬのを慰安とするものは、血の交る時にはただ生きているのを慰安とせねばならぬ。生きているだけを慰安とする運命に近づくかも知れぬ高柳君は、生きているだけを厭《いと》う人である。人は多くの場合においてこの矛盾を冒《おか》す。彼らは幸福に生きるのを目的とする。幸福に生きんがためには、幸福を享受《きょうじゅ》すべき生そのものの必要を認めぬ訳には行かぬ。単なる生命は彼らの目的にあらずとするも、幸福を享《う》け得る必須条件《ひっすじょうけん》として、あらゆる苦痛のもとに維持せねばならぬ。彼らがこの矛盾を冒《おか》して塵界《じんかい》に流転《るてん》するとき死なんとして死ぬ能《あた》わず、しかも日ごとに死に引き入れらるる事を自覚する。負債を償《つぐな》うの目的をもって月々に負債を新たにしつつあると変りはない。これを悲酸《ひさん》なる煩悶《はんもん》と云う。
高柳君は床《とこ》のなかから這《は》い出した。瓦斯糸《ガスいと》の蚊絣《かがすり》の綿入の上から黒木綿《くろもめん》の羽織を着る。机に向う。やっぱり翻訳をする了簡《りょうけん》である。四五日《しごんち》そのままにして置いた机の上には、障子の破れから吹き込んだ砂が一面に軽《かろ》くたまっている。硯《すずり》のなかは白く見える。高柳君は面倒だと見えて、塵《ちり》も吹かずに、上から水をさした。水入《みずいれ》に在《あ》る水ではない。五六輪の豆菊《まめぎく》を挿《さ》した硝子《ガラス》の小瓶《こびん》を花ながら傾けて、どっと硯の池に落した水である。さかに磨《す》り減らした古梅園《こばいえん》をしきりに動かすと、じゃりじゃり云う。高柳君は不愉快の眉《まゆ》をあつめた。不愉快の起る前に、不愉快を取り除く面倒をあえてせずして、不愉快の起った時に唇《くちびる》を噛《か》むのはかかる人の例である。彼は不愉快を忍ぶべく余り鋭敏である。しかしてあらかじめこれに備うべくあまり自棄《じき》である。
机上に原稿紙を展《の》べた彼は、一時間ほど呻吟《しんぎん》してようやく二三枚黒くしたが、やがて打ちやるように筆を擱《お》いた。窓の外には落ち損《そく》なった一枚の桐《きり》の葉が淋しく残っている。
「一人坊《ひとりぼ》っちだ」と高柳君は口のうちでまた繰り返した。
見るうちに、葉は少しく上に揺れてまた下に揺れた。いよいよ落ちる。と思う間に風ははたとやんだ。
高柳君は巻紙を出して、今度は故里《ふるさと》の御母《おっか》さんの所へ手紙を書き始めた。「寒気《かんき》相加わり候処《そろところ》如何《いかが》御暮し被遊候《あそばされそろ》や。不相変《あいかわらず》御丈夫の事と奉遥察候《ようさつたてまつりそろ》。私事も無事」とまでかいて、しばらく考えていたが、やがてこの五六行を裂いてしまった。裂いた反古《ほご》を口へ入れてくちゃくちゃ噛《か》んでいると思ったら、ぽっと黒いものを庭へ吐き出した。
一人坊っちの葉がまた揺れる。今度は右へ左へ二三度首を振る。その振りがようやく収《おさま》ったと思う頃、颯《さっ》と音がして、病葉《わくらば》はぽたりと落ちた。
「落ちた。落ちた」と高柳君はさも落ちたらしく云った。
やがて三尺の押入を開《あ》けて茶色の中折《なかおれ》を
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