「世話をするって、ああ気六《きむ》ずかしくっちゃ、駄目ですよ。細君が可哀想《かわいそう》だ」
「でも。御持ちになったら癒《なお》るでしょう」
「少しは癒るかも知れないが、元来《がんらい》が性分《しょうぶん》なんですからね。悲観する癖があるんです。悲観病に罹《かか》ってるんです」
「ホホホホどうして、そんな病気が出たんでしょう」
「どうしてですかね。遺伝かも知れません。それでなければ小供のうち何かあったんでしょう」
「何か御聞《おきき》になった事はなくって」
「いいえ、僕ああまりそんな事を聞くのが嫌《きらい》だから、それに、あの男はいっこう何《なん》にも打ち明けない男でね。あれがもっと淡泊《たんぱく》に思った事を云う風だと慰めようもあるんだけれども」
「困っていらっしゃるんじゃなくって」
「生活にですか、ええ、そりゃ困ってるんです。しかし無暗《むやみ》に金をやろうなんていったら擲《たた》きつけますよ」
「だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか、文学士だから」
「取れるですとも。だからもう少し待ってるといいですが、どうも性急《せっかち》で卒業したあくる日からして、立派な創作家になって、有名になって、そうして楽に暮らそうって云うのだから六《む》ずかしい」
「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。やっぱり御百姓なの」
「農《のう》、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。この間あなたが御出《おいで》のとき行《ゆ》き違《ちがい》に出て行った男があるでしょう」
「ええ、あの長い顔の髭《ひげ》を生《は》やした。あれはなに、わたしあの人の下駄を見て吃驚《びっくり》したわ。随分薄っぺらなのね。まるで草履《ぞうり》よ」
「あれで泰然たるものですよ。そうしてちっとも愛嬌《あいきょう》のない男でね。こっちから何か話しかけても、何《なん》にも応答をしない」
「それで何しに来たの」
「江湖雑誌《こうこざっし》の記者と云うんで、談話の筆記に来たんです」
「あなたの? 何か話しておやりになって?」
「ええ、あの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。――それであの男について妙な話しがあるんです。高柳が国の中学にいた時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ」
「あれで? まあ」
「ところが高柳なんぞが、いろいろな、いたずらをして、苛《いじ》めて追い出してしまったんです」
「あの人を? ひどい事をするのね」
「それで高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから、後悔して、さぞ先生も追い出されたために難義をしたろう、逢《あ》ったら謝罪するって云ってましたよ」
「全く追い出されたために、あんなに零落《れいらく》したんでしょうか。そうすると気の毒ね」
「それからせんだって江湖雑誌の記者と云う事が分ったでしょう。だから音楽会の帰りに教えてやったんです」
「高柳さんはいらしったでしょうか」
「行ったかも知れませんよ」
「追い出したんなら、本当に早く御詫《おわび》をなさる方がいいわね」
 善人の会話はこれで一段落を告げる。
「どうです、あっちへ行って、少しみんなと遊《あす》ぼうじゃありませんか。いやですか」
「写真は御やめなの」
「あ、すっかり忘れていた。写真は是非取らして下さい。僕はこれでなかなか美術的な奴を取るんです。うん、商売人の取るのは下等ですよ。――写真も五六年この方《かた》大変進歩してね。今じゃ立派な美術です。普通の写真はだれが取ったって同じでしょう。近頃のは個人個人の趣味で調子がまるで違ってくるんです。いらないものを抜いたり、いったいの調子を和《やわら》げたり、際《きわ》どい光線の作用を全景にあらわしたり、いろいろな事をやるんです。早いものでもう景色《けいしょく》専門家や人物専門家が出来てるんですからね」
「あなたは人物の専門家なの」
「僕? 僕は――そうさ、――あなただけの専門家になろうと思うのです」
「厭《いや》なかたね」
 金剛石《ダイヤモンド》がきらりとひらめいて、薄紅《うすくれない》の袖《そで》のゆるる中から細い腕《かいな》が男の膝《ひざ》の方に落ちて来た。軽《かろ》くあたったのは指先ばかりである。
 善人の会話は写真撮影に終る。

        八

 秋は次第に行く。虫の音《ね》はようやく細《ほそ》る。
 筆硯《ひっけん》に命を籠《こ》むる道也《どうや》先生は、ただ人生の一大事《いちだいじ》因縁《いんねん》に着《ちゃく》して、他《た》を顧《かえり》みるの暇《いとま》なきが故《ゆえ》に、暮るる秋の寒きを知らず、虫の音の細るを知らず、世の人のわれにつれなきを知らず、爪の先に垢《あか》のたまるを知らず、蛸寺《たこでら》の柿の落ちた事は無論知らぬ。動くべき社会をわが力に
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