晩に――」でわざと句を切る。
「結婚の晩にどうしたの」
「結婚の晩にね。庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって……」
「おおいやだ」
「どたりどたりと二階を上がって」
「怖《こわ》いわ」
「寝室の戸をあけて」
「気味がわるいわ」
「気味がわるければ、そこいらで、やめて置きましょう」
「だけれど、しまいにどうなるの」
「だから、どたり、どたりと寝室の戸をあけて」
「そこは、よしてちょうだい。ただしまいにどうなるの」
「では間を抜きましょう。――あした見たら男は冷《つ》めたくなって死んでたそうです。ヴィーナスに抱きつかれたところだけ紫色に変ってたと云います」
「おお、厭《いや》だ」と眉《まゆ》をあつめる。艶《えん》なる人の眉をあつめたるは愛嬌《あいきょう》に醋《す》をかけたようなものである。甘き恋に酔《え》い過ぎたる男は折々のこの酸味《さんみ》に舌を打つ。
濃くひける新月の寄り合いて、互に頭《かしら》を擡《もた》げたる、うねりの下に、朧《おぼろ》に見ゆる情けの波のかがやきを男はひたすらに打ち守る。
「奥さんはどうしたでしょう」女を憐むものは女である。
「奥さんは病気になって、病院に這入《はい》るのです」
「癒《なお》るのですか」
「そうさ。そこまでは覚えていない。どうしたっけかな」
「癒らない法はないでしょう。罪も何もないのに」
薄きにもかかわらず豊《ゆたか》なる下唇《したくちびる》はぷりぷりと動いた。男は女の不平を愚かなりとは思わず、情け深しと興がる。二人の世界は愛の世界である。愛はもっとも真面目《まじめ》なる遊戯である。遊戯なるが故に絶体絶命の時には必ず姿を隠す。愛に戯《たわ》むるる余裕のある人は至幸である。
愛は真面目である。真面目であるから深い。同時に愛は遊戯である。遊戯であるから浮いている。深くして浮いているものは水底の藻《も》と青年の愛である。
「ハハハハ心配なさらんでもいいです。奥さんはきっと癒ります」と男はメリメに相談もせず受合った。
愛は迷《まよい》である。また悟《さと》りである。愛は天地|万有《ばんゆう》をその中《うち》に吸収して刻下《こっか》に異様の生命を与える。故《ゆえ》に迷である。愛の眼《まなこ》を放つとき、大千世界《だいせんせかい》はことごとく黄金《おうごん》である。愛の心に映る宇宙は深き情《なさ》けの宇宙である。故に愛は悟りである。しかして愛の空気を呼吸するものは迷とも悟とも知らぬ。ただおのずから人を引きまた人に引かるる。自然は真空を忌《い》み愛は孤立《こりつ》を嫌《きら》う。
「わたし、本当に御気の毒だと思いますわ。わたしが、そんなになったら、どうしようと思うと」
愛は己《おの》れに対して深刻なる同情を有している。ただあまりに深刻なるが故に、享楽の満足ある場合に限りて、自己を貫《つらぬ》き出でて、人の身の上にもまた普通以上の同情を寄せる事ができる。あまりに深刻なるが故に失恋の場合において、自己を貫き出でて、人の身の上にもまた普通以上の怨恨《えんこん》を寄せる事が出来る。愛に成功するものは必ず自己を善人と思う。愛に失敗するものもまた必ず自己を善人と思う。成敗《せいばい》に論なく、愛は一直線である。ただ愛の尺度をもって万事を律する。成功せる愛は同情を乗せて走る馬車馬《ばしゃうま》である。失敗せる愛は怨恨を乗せて走る馬車馬《ばしゃうま》である。愛はもっともわがままなるものである。
もっともわがままなる善人が二人、美くしく飾りたる室《しつ》に、深刻なる遊戯を演じている。室外の天下は蕭寥《しょうりょう》たる秋である。天下の秋は幾多の道也《どうや》先生を苦しめつつある。幾多の高柳君を淋しがらせつつある。しかして二人はあくまでも善人である。
「この間の音楽会には高柳さんとごいっしょでしたね」
「ええ、別に約束した訳《わけ》でもないんですが、途中で逢ったものですから誘ったのです。何だか動物園の前で悲しそうに立って、桜の落葉を眺《なが》めているんです。気の毒になってね」
「よく誘《さそ》って御上《おあ》げになったのね。御病気じゃなくって」
「少し咳《せき》をしていたようです。たいした事じゃないでしょう」
「顔の色が大変|御《お》わるかったわ」
「あの男はあんまり神経質だもんだから、自分で病気をこしらえるんです。そうして慰めてやると、かえって皮肉を云うのです。何だか近来はますます変になるようです」
「御気の毒ね。どうなすったんでしょう」
「どうしたって、好《この》んで一人坊《ひとりぼ》っちになって、世の中をみんな敵《かたき》のように思うんだから、手のつけようがないです」
「失恋なの」
「そんな話もきいた事もないですがね。いっそ細君でも世話をしたらいいかも知れない」
「御世話をして上げたらいいでしょう」
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