「教えて上げましょうか」
「ええ教えて下さい」
「教えて上げるから笑っちゃいけませんよ」
「笑やしません。この通り真面目《まじめ》でさあ」
「この間ね、池上《いけがみ》に競馬があったでしょう。あの時父様があすこへいらしってね。そうして……」
「そうして、どうしたんです。――拾って来たんですか」
「あら、いやだ。あなたは失敬ね」
「だって、待っててもあとをおっしゃらないですもの」
「今云うところなのよ。そうして賭《かけ》をなすったんですって」
「こいつは驚ろいた。あなたの御父さんもやるんですか」
「いえ、やらないんだけれども、試《ため》しにやって見たんだって」
「やっぱりやったんじゃありませんか」
「やった事はやったの。それで御金を五百円ばかり御取りになったんだって」
「へえ。それで買って頂いたのですか」
「まあ、そうよ」
「ちょっと拝見」と手を出す。男は耀《かがや》くものを軽《かろ》く抑《おさ》えた。
指輪は魔物である。沙翁《さおう》は指輪を種に幾多の波瀾《はらん》を描いた。若い男と若い女を目に見えぬ空裏《くうり》に繋《つな》ぐものは恋である。恋をそのまま手にとらすものは指輪である。
三重《みえ》にうねる細き金の波の、環《わ》と合うて膨《ふく》れ上るただ中を穿《うが》ちて、動くなよと、安らかに据《す》えたる宝石の、眩《まば》ゆさは天《あめ》が下《した》を射れど、毀《こぼ》たねば波の中より奪いがたき運命は、君ありての妾《われ》、妾故《われゆえ》にの君である。男は白き指もろ共に指輪を見詰めている。
「こんな指輪だったのか知らん」と男が云う。女は寄り添うて同じ長椅子《ソーファ》を二人の間に分《わか》つ。
「昔しさる好事家《こうずか》がヴィーナスの銅像を掘り出して、吾《わ》が庭の眺《なが》めにと橄欖《かんらん》の香《か》の濃く吹くあたりに据《す》えたそうです」
「それは御話? 突然なのね」
「それから或《ある》日テニスをしていたら……」
「あら、ちっとも分らないわ。誰がテニスをするの。銅像を掘り出した人なの?」
「銅像を掘り出したのは人足《にんそく》で、テニスをしたのは銅像を掘り出さした主人の方です」
「どっちだって同じじゃありませんか」
「主人と人足と同じじゃ少し困る」
「いいえさ、やっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう」
「そう強情を御張りになるなら、それでよろしい。――では掘り出した人がテニスをする……」
「強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方《ほう》がテニスをするの、ね。いいでしょう」
「どっちでも同じでさあ」
「あら、あなた、御怒《おおこ》りなすったの。だから掘り出さした方だって、あやまっているじゃありませんか」
「ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納《ゆいのう》の指輪なんです」
「誰と結婚をなさるの?」
「誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです」
「あら、お話しになってもいじゃありませんか」
「隠す訳じゃないが……」
「じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?」
「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」
「それじゃ、ずるいわ」
「だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの」
「どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます」
「困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう」
「いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして」
「だって名前を知らないんですもの」
「だからその先を話してちょうだいな」
「名前はなくってもいいのですか」
「ええ」
「そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです」
「うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか」
「ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田舎《いなか》へ旅行してから気がついたのです。しかしいまさらどうもする事が出来ないから、それなりにして、未来の細君にはちょっとしたでき合《あい》の指環《ゆびわ》を買って結納《ゆいのう》にしたのです」
「厭《いや》な方ね。不人情だわ」
「だって忘れたんだから仕方がない」
「忘れるなんて、不人情だわ」
「僕なら忘れないんだが、異人《いじん》だから忘れちまったんです」
「ホホホホ異人だって」
「そこで結納も滞《とどこお》りなく済んでから、うちへ帰っていよいよ結婚の
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