この裸体像の上に落ちた。
「あの像は」と聞く。
「無論模造です。本物は巴理《パリ》のルーヴルにあるそうです。しかし模造でもみごとですね。腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。――これが全身完全だと非常なものですが、惜しい事に手が欠けてます」
「本物も欠けてるんですか」
「ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです」
「何の像でしょう」
「ヴィーナス。愛の神です」と男はことさらに愛と云う字を強く云った。
「ヴィーナス!」
深い眼睫《まつげ》の奥から、ヴィーナスは溶《と》けるばかりに見詰められている。冷《ひや》やかなる石膏《せっこう》の暖まるほど、丸《まろ》き乳首《ちくび》の、呼吸につれて、かすかに動くかと疑《あや》しまるるほど、女は瞳《ひとみ》を凝《こ》らしている。女自身も艶《えん》なるヴィーナスである。
「そう」と女はやがて、かすかな声で云う。
「あんまり見ているとヴィーナスが動き出しますよ」
「これで愛の神でしょうか」と女はようやく頭《かしら》を回《めぐ》らした。
あなたの方が愛の神らしいと云おうとしたが、女と顔を見合した時、男は急に躊躇《ちゅうちょ》した。云えば女の表情が崩《くず》れる。この、訝《いぶか》るがごとく、訴うるがごとく、深い眼のうちに我を頼るがごとき女の表情を一瞬たりとも、我から働きかけて打《う》ち壊《こわ》すのは、メロスのヴィーナスの腕《かいな》を折ると同じく大《おおい》なる罪科《ざいか》である。
「気高《けだか》過ぎて……」と男の我を援《たす》けぬをもどかしがって女は首を傾けながら、我からと顔の上なる姿を変えた。男はしまったと思う。
「そう、すこし堅過ぎます。愛と云う感じがあまり現われていない」
「何だか冷《つ》めたいような心持がしますわ」
「その通りだ。冷めたいと云うのが適評だ。何だか妙だと思っていたが、どうも、いい言葉が出て来なかったんです。冷めたい――冷めたい、と云うのが一番いい」
「なぜこんなに、拵《こし》らえたんでしょう」
「やっぱりフ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ジアス式だから厳格なんでしょう」
「あなたは、こう云うのが御好き」
女は石像をさえ、自分と比較して愛人の心を窺《うかが》って見る。ヴィーナスを愛するものは、自分を愛してはくれまいと云う掛念《けねん》がある。女はヴィーナスの、神である事を忘れている。
「好きって、いいじゃありませんか、古今《ここん》の傑作ですよ」
女の批判は直覚的である。男の好尚《こうしょう》は半《なか》ば伝説的である。なまじいに美学などを聴いた因果《いんが》で、男はすぐ女に同意するだけの勇気を失っている。学問は己《おの》れを欺《あざむ》くとは心づかぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたずらに誤まれりとのみ見る。
「古今の傑作ですよ」と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育するためであった。
「そう」と女は云ったばかりである。石火《せっか》を交《まじ》えざる刹那《せつな》に、はっと受けた印象は、学者の一言のために打ち消されるものではない。
「元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯想《れんそう》がある」
「どんな聯想なの」と女はおとなしく聞きつつ、双《そう》の手を立ちながら膝《ひざ》の上に重ねる。手頸《てくび》からさきが二寸ほど白く見えて、あとは、しなやかなる衣《きぬ》のうちに隠れる。衣は薄紅《うすくれない》に銀の雨を濃く淡く、所まだらに降らしたような縞柄《しまがら》である。
上になった手の甲の、五つに岐《わか》れた先の、しだいに細まりてかつ丸く、つやある爪に蔽《おお》われたのが好《い》い感じである。指は細く長く、すらりとした姿を崩《くず》さぬほどに、柔らかな肉を持たねばならぬ。この調《ととの》える姿が五本ごとに異ならねばならぬ。異なる五本が一つにかたまって、纏《まと》まる調子をつくらねばならぬ。美くしき手を持つ人は、美くしき顔を持つ人よりも少ない。美くしき手を持つ人には貴《たっと》き飾りが必要である。
女は燦《さん》たるものを、細き肉に戴《いただ》いている。
「その指輪は見馴《みな》れませんね」
「これ?」と重ねた手は解《と》けて、右の指に耀《かがや》くものをなぶる。
「この間父様に買っていただいたの」
「金剛石《ダイヤモンド》ですか」
「そうでしょう。天賞堂から取ったんですから」
「あんまり御父さんを苛《いじ》めちゃいけませんよ」
「あら、そうじゃないのよ。父様の方から買って下さったのよ」
「そりゃ珍らしい現象ですね」
「ホホホホ本当ね。あなたその訳《わけ》を知ってて」
「知るものですか、探偵《たんてい》じゃあるまいし」
「だから御存じないでしょうと云うのですよ」
「だから知りませんよ」
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