すか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向《あおむ》けば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう」
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭《ひげ》でも生《は》やしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです」
「実に失敬な奴ですね。全体|何物《なにもの》でしょう」
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気《のんき》なものさハハハハ」
「どうも驚ろいちまう。私なら撲《な》ぐってやる」
「そんなのを撲った日にゃ片《かた》っ端《ぱし》から撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ」
高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋《たび》の影はいつしか消えて、開《あ》け放《はな》った一枚の間から、靴刷毛《くつはけ》の端《はじ》が見える。椽《えん》は泥だらけである。手《て》の平《ひら》ほどな庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧《ひん》を照らしている。自然をどうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美くしいと感じた。杉垣《すぎがき》の遥《はる》か向《むこう》に大きな柿の木が見えて、空のなかへ五分珠《ごぶだま》の珊瑚《さんご》をかためて嵌《は》め込んだように奇麗に赤く映る。鳴子《なるこ》の音がして烏《からす》がぱっと飛んだ。
「閑静な御住居《おすまい》ですね」
「ええ。蛸寺《たこでら》の和尚《おしょう》が烏を追っているんです。毎日がらんがらん云わして、烏ばかり追っている。ああ云う生涯《しょうがい》も閑静でいいな」
「大変たくさん柿が生《な》っていますね」
「渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。――君妙な咳《せき》を時々するが、身体《からだ》は丈夫ですか。だいぶ瘠《や》せてるようじゃありませんか。そう瘠せてちゃいかん。身体が資本だから」
「しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか」
「わたし? わたしは瘠せている。瘠せてはいるが大丈夫」
七
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白き蝶《ちょう》の、白き花に、
小《ちさ》き蝶の、小き花に、
みだるるよ、みだるるよ。
長き憂《うれい》は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分《のわき》の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
みだるるよ、みだるるよ。
[#ここで字下げ終わり]
と女はうたい了《おわ》る。銀椀《ぎんわん》に珠《たま》を盛りて、白魚《しらうお》の指に揺《うご》かしたらば、こんな声がでようと、男は聴《き》きとれていた。
「うまく、唱《うた》えました。もう少し稽古《けいこ》して音量が充分に出ると大きな場所で聴いても、立派に聴けるに違いない。今度演奏会でためしにやって見ませんか」
「厭《いや》だわ、ためしだなんて」
「それじゃ本式に」
「本式にゃなおできませんわ」
「それじゃ、つまりおやめと云う訳《わけ》ですか」
「だってたくさん人のいる前なんかで、――恥ずかしくって、声なんか出やしませんわ」
「その新体詩はいいでしょう」
「ええ、わたし大好き」
「あなたが、そうやって、唱ってるところを写真に一つ取りましょうか」
「写真に?」
「ええ、厭ですか」
「厭じゃないわ。だけれども、取って人に御見せなさるでしょう」
「見せてわるければ、わたし一人で見ています」
女は何《な》にも云わずに眼を横に向けた。こぼれ梅を一枚の半襟《はんえり》の表《おもて》に掃き集めた真中《まんなか》に、明星《みょうじょう》と見まがうほどの留針《とめばり》が的※[#「白+樂」、第3水準1−88−69]《てきれき》と耀《かがや》いて、男の眼を射る。
女の振り向いた方には三尺の台を二段に仕切って、下には長方形の交趾《こうち》の鉢《はち》に細き蘭《らん》が揺《ゆ》るがんとして、香《こう》の煙りのたなびくを待っている。上段にはメロスの愛神《ヴィーナス》の模像を、ほの暗き室《へや》の隅に夢かとばかり据《す》えてある。女の眼は端《はし》なくも
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