る名じゃないから」
「聞いて見たかい」
「聞こうと思ったが、何だかきまりが悪るかったからやめた」
「なぜ」
「だって、あなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか」
「追い出されましたかと聞かなくってもいいさ」
「しかし容易に聞きにくい男だよ。ありゃ、困る人だ。用事よりほかに云わない人だ」
「そんなになったかも知れない。元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい」
「なあに、江湖雑誌《こうこざっし》の記者だって、僕の所へ談話の筆記に来たのさ」
「君の談話をかい。――世の中も妙な事になるものだ。やっぱり金が勝つんだね」
「なぜ」
「なぜって。――可哀想《かわいそう》に、そんなに零落《れいらく》したかなあ。――君道也先生、どんな、服装《なり》をしていた」
「そうさ、あんまり立派じゃないね」
「立派でなくっても、まあどのくらいな服装をしていた」
「そうさ。どのくらいとも云い悪《にく》いが、そうさ、まあ君ぐらいなところだろう」
「え、このくらいか、この羽織ぐらいなところか」
「羽織はもう少し色が好《い》いよ」
「袴《はかま》は」
「袴は木綿《もめん》じゃないが、その代りもっと皺苦茶《しわくちゃ》だ」
「要するに僕と伯仲《はくちゅう》の間か」
「要するに君と伯仲の間だ」
「そうかなあ。――君、背《せい》の高い、ひょろ長い人だぜ」
「背の高い、顔の細長い人だ」
「じゃ道也先生に違ない。――世の中は随分|無慈悲《むじひ》なものだなあ。――君番地を知ってるだろう」
「番地は聞かなかった」
「聞かなかった?」
「うん。しかし江湖雑誌《こうこざっし》で聞けばすぐわかるさ。何でもほかの雑誌や新聞にも関係しているかも知れないよ。どこかで白井道也と云う名を見たようだ」
 音楽会の帰りの馬車や車は最前《さいぜん》から絡繹《らくえき》として二人を後ろから追い越して夕暮を吾家《わがや》へ急ぐ。勇ましく馳《か》けて来た二|梃《ちょう》の人力《じんりき》がまた追い越すのかと思ったら、大仏を横に見て、西洋軒のなかに掛声ながら引き込んだ。黄昏《たそがれ》の白き靄《もや》のなかに、逼《せま》り来る暮色を弾《はじ》き返すほどの目覚《めざま》しき衣《きぬ》は由《よし》ある女に相違ない。中野君はぴたりと留まった。
「僕はこれで失敬する。少し待ち合せている人があるから」
「西洋軒で会食すると
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