うなかれと命ぜられたる時は富なき昔《むか》しの心安きに帰る能《あた》わずして、命《めい》を下せる人を逆《さか》しまに詛《のろ》わんとす。われは呪《のろ》い死にに死なねばならぬか。――たちまち咽喉《のど》が塞《ふさ》がって、ごほんごほんと咳《せ》き入《い》る。袂《たもと》からハンケチを出して痰《たん》を取る。買った時の白いのが、妙な茶色に変っている。顔を挙《あ》げると、肩から観世《かんぜ》よりのように細い金鎖《きんぐさ》りを懸《か》けて、朱に黄を交《まじ》えた厚板の帯の間に時計を隠した女が、列のはずれに立って、中野君に挨拶《あいさつ》している。
「よう、いらっしゃいました」と可愛らしい二重瞼《ふたえまぶた》を細めに云う。
「いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな」と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。
「ええ、大喜びで……」と云い捨てて下りて行く。
「あの女を知ってるかい」
「知るものかね」と高柳君は拳突《けんつく》を喰わす。
 相手は驚ろいて黙ってしまった。途端《とたん》に休憩後の演奏は始まる。「四葉《よつば》の苜蓿花《うまごやし》」とか云うものである。曲の続く間は高柳君はうつらうつらと聴いている。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒《さ》めたように我に帰る。この過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚《よ》び醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅鑼《どら》を敲《たた》き大喇叭《おおらっぱ》を吹くところであった。
 やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉《も》まれながらに門を出た。
 日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳《そび》える松の林が緑りの色を微《かす》かに残して、しだいに黒い影に変って行く。
「寒くなったね」
 高柳君の答は力の抜けた咳《せき》二つであった。
「君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい」
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君は尖《とが》った肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀杏《いちょう》に墨汁《ぼくじゅう》を点《てん》じたような滴々《てきてき》の烏《からす》が乱れている。暮れて行く空に輝くは無数の落葉である。今は風さえ出た。
「君|二三日前《にさんちまえ》に白井道也《しらいどうや》と云う人が来たぜ」
「道也先生?」
「だろうと思うのさ。余り沢山あ
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