ンを温かに右の腋下《えきか》に護《まも》りたる演奏者は、ぐるりと戸側《とぎわ》に体《たい》を回《めぐ》らして、薄紅葉《うすもみじ》を点じたる裾模様《すそもよう》を台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、飄《ひるが》える袖《そで》の影に受けとって、なよやかなる上躯《じょうく》を聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴《き》いたのは、聴かされたのではない。聴かさぬと云うを、ひそかに忍び寄りて、偸《ぬす》み聴いたのである。
演奏は喝采《かっさい》のどよめきの静まらぬうちにまた始まる。聴衆はとっさの際にことごとく死んでしまう。高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥《はる》かの向うから熟柿《じゅくし》のような色の暖かい太陽が、のっと上《のぼ》ってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。右を見ても左を見ても人は我を擯斥《ひんせき》しているように見える。たった一人の友達さえ肝心《かんじん》のところで無残《むざん》の手をぱちぱち敲《たた》く。たよる所がなければ親の所へ逃げ帰れと云う話もある。その親があれば始からこんなにはならなかったろう。七つの時おやじは、どこかへ行ったなり帰って来ない。友達はそれから自分と遊ばなくなった。母に聞くと、おとっさんは今に帰る今に帰ると云った。母は帰らぬ父を、帰ると云ってだましたのである。その母は今でもいる。住み古《ふ》るした家を引き払って、生れた町から三里の山奥に一人|佗《わ》びしく暮らしている。卒業をすれば立派になって、東京へでも引き取るのが子の義務である。逃げて帰れば親子共|餓《う》えて死ななければならん。――たちまち拍手の声が一面に湧《わ》き返る。
「今のは面白かった。今までのうち一番よく出来た。非常に感じをよく出す人だ。――どうだい君」と中野君が聞く。
「うん」
「君面白くないか」
「そうさな」
「そうさなじゃ困ったな。――おいあすこの西洋人の隣りにいる、細《こま》かい友禅《ゆうぜん》の着物を着ている女があるだろう。――あんな模様が近頃|流行《はやる》んだ。派出《はで》だろう」
「そうかなあ」
「君はカラー・センスのない男だね。ああ云う派出な着物は、集会の時や何かにはごくいいのだね。遠くから見て、見醒《みざ》めがしない。うつくしくっていい
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