》みてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束《おぼつか》なき針の目を忍んで繋《つな》ぐ、細い糸の御蔭《おかげ》である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河《さんが》が横《よこた》わっている。歯を病《や》んだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳《か》けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。
「君などは悲観する必要がないから結構だ」と、ビステキを半分で断念した高柳君は敷島をふかしながら、相手の顔を眺めた。相手は口をもがもがさせながら、右の手を首と共に左右に振ったのは、高柳君に同意を表しないのと見える。
「僕が悲観する必要がない? 悲観する必要がないとすると、つまりおめでたい人間と云う意味になるね」
高柳君は覚えず、薄い唇《くちびる》を動かしかけたが、微《かす》かな漣《さざなみ》は頬《ほお》まで広がらぬ先に消えた。相手はなお言葉をつづける。
「僕だって三年も大学にいて多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれほど悲観すべきものであるかぐらいは知ってるつもりだ」
「書物の上でだろう」と高柳君は高い山から谷底を見下ろしたように云う。
「書物の上――書物の上では無論だが、実際だって、これでなかなか苦痛もあり煩悶《はんもん》もあるんだよ」
「だって、生活には困らないし、時間は充分あるし、勉強はしたいだけ出来るし、述作は思う通りにやれるし。僕に較《くら》べると君は実に幸福だ」と高柳君今度はさも羨《うらや》ましそうに嘆息する。
「ところが裏面はなかなかそんな気楽なんじゃないさ。これでもいろいろ心配があって、いやになるのだよ」と中野君は強《し》いて心配の所有権を主張している。
「そうかなあ」と相手は、なかなか信じない。
「そう君まで茶かしちゃ、いよいよつまらなくなる。実は今日あたり、君の所へでも出掛けて、大《おおい》に同情してもらおうかと思っていたところさ」
「訳《わけ》をきかせなくっちゃ同情も出来ないね」
「訳はだんだん話すよ。あんまり、くさくさするから、こうやって散歩に来たくらいなものさ
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