は演説を聞いて帰ってから、とうとう喀血《かっけつ》してしまった。
「今日はだいぶいい」と床の上に起き返って後《うしろ》から掻巻《かいまき》を背《せ》の半分までかけている。
中野君は大島紬《おおしまつむぎ》の袂《たもと》から魯西亜皮《ロシアがわ》の巻莨入《まきたばこいれ》を出しかけたが、
「うん、煙草《たばこ》を飲んじゃ、わるかったね」とまた袂のなかへ落す。
「なに構わない。どうせ煙草ぐらいで癒《なお》りゃしないんだから」と憮然《ぶぜん》としている。
「そうでないよ。初《はじめ》が肝心《かんじん》だ。今のうち養生しないといけない。昨日《きのう》医者へ行って聞いて見たが、なに心配するほどの事もない。来たかい医者は」
「今朝来た。暖《あった》かにしていろと云った」
「うん。暖かにしているがいい。この室《へや》は少し寒いねえ」と中野君は侘《わび》し気《げ》に四方《あたり》を見廻した。
「あの障子《しょうじ》なんか、宿の下女にでも張らしたらよかろう。風が這入《はい》って寒いだろう」
「障子だけ張ったって……」
「転地でもしたらどうだい」
「医者もそう云うんだが」
「それじゃ、行くがいい。今朝そう云ったのかね」
「うん」
「それから君は何と答えた」
「何と答えるったって、別に答えようもないから……」
「行けばいいじゃないか」
「行けばいいだろうが、ただはいかれない」
高柳君は元気のない顔をして、自分の膝頭《ひざがしら》へ眼を落した。瓦斯双子《ガスふたこ》の端《はじ》から鼠色《ねずみいろ》のフラネルが二寸ばかり食《は》み出《だ》している。寸法も取らず別々に仕立てたものだろう。
「それは心配する事はない。僕がどうかする」
高柳君は潤《うるおい》のない眼を膝から移して、中野君の幸福な顔を見た。この顔しだいで返答はきまる。
「僕がどうかするよ。何《なん》だって、そんな眼をして見るんだ」
高柳君は自分の心が自分の両眼《りょうがん》から、外を覗《のぞ》いていたのだなと急に気がついた。
「君に金を借りるのか」
「借りないでもいいさ……」
「貰うのか」
「どうでもいいさ。そんな事を気に掛ける必要はない」
「借りるのはいやだ」
「じゃ借りなくってもいいさ」
「しかし貰う訳には行かない」
「六《む》ずかしい男だね。何だってそんなにやかましくいうのだい。学校にいる時分は、よく君の方から金を借
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