「何分宜《なにぶんよろ》しく願います」
「じゃ、それはきまったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら清輝館《せいきかん》の前に、大きな広告があって、わたしは吃驚《びっくり》させられましたよ」
「何の広告でござんす」
「演説の広告なんです。――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ」
「へえ、ちっとも存じませんでした」
「それで題が大きいから面白い、現代の青年に告ぐと云うんです。まあ何の事やら、あんなものの云う事を聞きにくる青年もなさそうじゃありませんか。しかし剣呑《けんのん》ですよ。やけになって何を云うか分らないから。わたしも課長から忠告された矢先だから、すぐ社へ電話をかけて置いたから、まあ好《い》いですが、何なら、やらせたくないものですね」
「何の演説をやるつもりでござんしょう。そんな事をやるとまた人様《ひとさま》に御迷惑がかかりましょうね」
「どうせまた過激な事でも云うのですよ。無事に済めばいいが、つまらない事を云おうものなら取って返しがつかないからね。――どうしてもやめさせなくっちゃ、いけないね」
「どうしたらやめるでござんしょう」
「これもよせったって、頑固《がんこ》だから、よす気遣《きづかい》はない。やっぱり欺《だま》すより仕方がないでしょう」
「どうして欺したらいいでしょう」
「そうさ。あした時刻にわたしが急用で逢《あ》いたいからって使をよこして見ましょうか」
「そうでござんすね。それで、あなたの方へ参るようだと宜《よろ》しゅうございますが……」
「聞かないかも知れませんね。聞かなければそれまでさ」
初冬《はつふゆ》の日はもう暗くなりかけた。道也先生は風のなかを帰ってくる。
十一
今日もまた風が吹く。汁気《しるけ》のあるものをことごとく乾鮭《からさけ》にするつもりで吹く。
「御兄《おあにい》さんの所から御使です」と細君が封書を出す。道也は坐ったまま、体《たい》をそらして受け取った。
「待ってるかい」
「ええ」
道也は封を切って手紙を読み下す。やがて、終りから巻き返して、再び状袋のなかへ収めた。何にも云わない。
「何か急用ででもござんすか」
道也は「うん」と云いながら、墨を磨《す》って、何かさらさらと返事を認《したた》めている。
「何の御用ですか」
「ええ? ちょっと待った。書いてしまうから」
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