う」
「まことに御気の毒さまで……」
「いえ、あなたに何も云うつもりはない。当人がさ。まるで無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって筆耕《ひっこう》の真似《まね》をしているものが、どこの国にいるものですか。あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか」
「自分だけはあれでなかなかえらいつもりでおりますから」
「ハハハハえらいつもりだって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃしようがない」
「近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います」
「何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたってどこが面白い。一文にゃならず、人からは擯斥《ひんせき》される。つまり自分の錆《さび》になるばかりでさあ」
「少しは人の云う事でも聞いてくれるといいんですけれども」
「しまいにゃ人にまで迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私《わたし》を呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無暗《むやみ》に不穏な言論をして富豪などを攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、さんざん叱られたんです」
「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」
「そりゃ、会社なんてものは、それぞれ探偵が届きますからね」
「へえ」
「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣《きづかい》はないが、課長からそう云われて見ると、放《ほう》って置けませんからね」
「ごもっともで」
「それで実は今日は相談に来たんですがね」
「生憎《あいにく》出まして」
「なに当人はいない方がかえっていい。あなたと相談さえすればいい。――で、わたしも今途中でだんだん考えて来たんだが、どうしたものでしょう」
「あなたから、とくと異見《いけん》でもしていただいて、また教師にでも奉職したら、どんなものでございましょう」
「そうなればいいですとも。あなたも仕合《しあわ》せだし、わたしも安心だ。――しかし異見《いけん》でおいそれと、云う通りになる男じゃありませんよ」
「そうでござんすね。あの様子じゃ、とても駄目でございましょうか」
「わたしの鑑定じゃ、とうてい駄目だ。――それでここに一つの策があるんだが、どうでしょう当人の方から
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