橋の向うで万歳と云う返事がある。これは迷子《まいご》の万歳である。高柳君はのそりと疳違《かんちがい》をした客のように天幕のうちに這入《はい》った。
 皿だけ高く差し上げて人と人の間を抜けて来たものがある。
「さあ、御上《おあが》んなさい。まだあるんだが人が込んでて容易に手が届かない」と云う。高柳君は自分にくれるにしては目の見当が少し違うと思ったら、後《うし》ろの方で「ありがとう」と云う涼しい声がした。十七八の桃色縮緬《ももいろちりめん》の紋付をきた令嬢が皿をもらったまま立っている。
 傍にいた紳士が、天幕の隅《すみ》から一脚の椅子《いす》を持って来て、
「さあこの上へ御乗せなさい」と令嬢の前に据《す》えた。高柳君は一間ばかり左へ進む。天幕の柱に倚《よ》りかかって洋服と和服が煙草《たばこ》をふかしている。
「葉巻はやめたのかい」
「うん、頭にわるいそうだから――しかしあれを呑《の》みつけると、何だね、紙巻はとうてい呑めないね。どんな好《い》い奴《やつ》でも駄目だ」
「そりゃ、価段《ねだん》だけだから――一本三十銭と三銭とは比較にならないからな」
「君は何を呑むのだい」
「これを一つやって見たまえ」と洋服が鰐皮《わにがわ》の煙草入から太い紙巻を出す。
「なるほどエジプシアンか。これは百本五六円するだろう」
「安い割にはうまく呑めるよ」
「そうか――僕も紙巻でも始めようか。これなら日に二十本ずつにしても二十円ぐらいであがるからね」
 二十円は高柳君の全収入である。この紳士は高柳君の全収入を煙《けむ》にするつもりである。
 高柳君はまた左へ四尺ほど進んだ。二三人話をしている。
「この間ね、野添《のぞえ》が例の人造肥料会社を起すので……」と頭の禿《は》げた鼻の低い金歯を入れた男が云う。
「うん。ありゃ当ったね。旨《うま》くやったよ」と真四角な色の黒い、煙草入の金具のような顔が云う。
「君も賛成者のうちに名が見えたじゃないか」と胡麻塩頭《ごましおあたま》の最前《さいぜん》中野君を中途で強奪《ごうだつ》したおやじが云う。
「それさ」と今度は禿げの番である。「野添が、どうです少し持ってくれませんかと云うから、さようさ、わたしは今回はまあよしましょうと断わったのさ。ところが、まあ、そう云わずと、せめて五百株でも、実はもう貴所《あなた》の名前にしてあるんだからと云うのさ、面倒だからいい
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