―君妙な咳《せき》を時々するが、身体《からだ》は丈夫ですか。だいぶ瘠《や》せてるようじゃありませんか。そう瘠せてちゃいかん。身体が資本だから」
「しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか」
「わたし? わたしは瘠せている。瘠せてはいるが大丈夫」

        七

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白き蝶《ちょう》の、白き花に、
小《ちさ》き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂《うれい》は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分《のわき》の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ。
[#ここで字下げ終わり]
と女はうたい了《おわ》る。銀椀《ぎんわん》に珠《たま》を盛りて、白魚《しらうお》の指に揺《うご》かしたらば、こんな声がでようと、男は聴《き》きとれていた。
「うまく、唱《うた》えました。もう少し稽古《けいこ》して音量が充分に出ると大きな場所で聴いても、立派に聴けるに違いない。今度演奏会でためしにやって見ませんか」
「厭《いや》だわ、ためしだなんて」
「それじゃ本式に」
「本式にゃなおできませんわ」
「それじゃ、つまりおやめと云う訳《わけ》ですか」
「だってたくさん人のいる前なんかで、――恥ずかしくって、声なんか出やしませんわ」
「その新体詩はいいでしょう」
「ええ、わたし大好き」
「あなたが、そうやって、唱ってるところを写真に一つ取りましょうか」
「写真に?」
「ええ、厭ですか」
「厭じゃないわ。だけれども、取って人に御見せなさるでしょう」
「見せてわるければ、わたし一人で見ています」
 女は何《な》にも云わずに眼を横に向けた。こぼれ梅を一枚の半襟《はんえり》の表《おもて》に掃き集めた真中《まんなか》に、明星《みょうじょう》と見まがうほどの留針《とめばり》が的※[#「白+樂」、第3水準1−88−69]《てきれき》と耀《かがや》いて、男の眼を射る。
 女の振り向いた方には三尺の台を二段に仕切って、下には長方形の交趾《こうち》の鉢《はち》に細き蘭《らん》が揺《ゆ》るがんとして、香《こう》の煙りのたなびくを待っている。上段にはメロスの愛神《ヴィーナス》の模像を、ほの暗き室《へや》の隅に夢かとばかり据《す》えてある。女の眼は端《はし》なくも
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