ったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚《みな》して差支《さしつかえ》ない。しかし宗助の邸宅を売って儲《もう》けたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財産にしてやる。宗助はあんな事をして廃嫡《はいちゃく》にまでされかかった奴だから、一文《いちもん》だって取る権利はない。
「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」と叔母が断った。宗助は黙ってあとを聞いていた。
 小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑《にぎ》やかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。運だと思って諦《あき》らめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえ好ければ、焼けた家《うち》と同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」と云って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業についてであった。
 安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。家庭で暖かに育った上に、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶《うかつ》と云ってもいいが、その迂濶なところにどこか鷹揚《おうよう》な趣《おもむき》を具《そな》えて実社会へ顔を出したのである。専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日《こんにち》といえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲《おやゆず》りの山気《やまぎ》がどこかに潜《ひそ》んでいるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場《こうば》を月島|辺《へん》に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注《つ》ぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。叔母の内幕話と云ったのはそこである。
「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文《いちもん》なし同然な仕儀《しぎ》でいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸《いえやしき》は持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母《おっか》さんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青《おもと》の葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆《まさか》そうでも無いんですけれども」と叔母が云った。
 宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭が失《な》くなった証拠《しょうこ》だろうと自覚した。叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。
「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。旨《うま》く行ったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるで煙《けむ》にならないとも限らないんですから」と叔母がつけ加えた。
 宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕《あこぎ》なところも見えないので、心の中《うち》では少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合《かけあい》もせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした。そこで今までの問題はそこに据《す》えっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の所置を聞き糺《ただ》して見ると、叔母は、
「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入《はい》ってからでも、もうかれこれ七百円は掛かっているんですもの」と答えた。
 宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品《こっとうひん》の成行《なりゆき》を確かめて見た。すると、叔母は、
「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」と云いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると、
「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と云いながら、その顛末《てんまつ》を語って聞かした。
 宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方《うりさばきかた》を真田《さなだ》とかいう懇意の男に依頼した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某《だれそれがし》が何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとか号《ごう》して、品物を持って行ったぎり、返して来ない。催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつて埒《らち》の明いた試《ためし》がなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。
「でもね、まだ屏風《びょうぶ》が一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度《こんだ》ついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」
 叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。宗助も今日《きょう》まで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を有《も》ち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色《けしき》のない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。それでも、叔母が、
「宗さん、どうせ家《うち》じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変|価《ね》が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
 納戸《なんど》から取り出して貰って、明るい所で眺《なが》めると、たしかに見覚《みおぼえ》のある二枚折であった。下に萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、芒《すすき》、葛《くず》、女郎花《おみなえし》を隙間《すきま》なく描《か》いた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空《あ》いた所へ、野路《のじ》や空月の中なる女郎花、其一《きいち》と題してある。宗助は膝《ひざ》を突いて銀の色の黒く焦《こ》げた辺《あたり》から、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福《だいふく》ほどな大きな丸い朱の輪廓《りんかく》の中に、抱一《ほういつ》と行書で書いた落款《らっかん》をつくづくと見て、父の生きている当時を憶《おも》い起さずにはいられなかった。
 父は正月になると、きっとこの屏風《びょうぶ》を薄暗い蔵《くら》の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀《したん》の角《かく》な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床《とこ》には必ず虎の双幅《そうふく》を懸《か》けた。これは岸駒《がんく》じゃない岸岱《がんたい》だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画《え》には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑《の》んでいる鼻柱が少し汚《けが》されたのを、父は苛《ひど》く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯《いたずら》だぞと云って、おかしいような恨《うら》めしいような一種の表情をした。
 宗助は屏風《びょうぶ》の前に畏《かしこ》まって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。
 宗助は然《しか》るべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩食《ばんめし》の後《のち》御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣《ゆかた》を並べて、涼みながら、画の話をした。
「安さんには、御逢いなさらなかったの」と御米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「随分骨が折れるでしょうね」
 御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言《ひとこと》の批評も加えなかった。
「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と云うだけであった。
「理窟《りくつ》を云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠《しょうこ》も何もなければ勝てる訳のものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」
 夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇《ひさし》の下から覗《のぞ》いて見て、明日《あした》の天気を語り合って蚊帳《かや》に這入《はい》った。
 次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、
「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」と教えた。
 小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
「そうですか」と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡《りょうけん》はないんだから」
「そりゃ、分っています」と弟は峻《けわ》しい物の云い方をした。
「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日《こんにち》まで悪いところだらけな男だもの」
 宗助は横になって煙草《たばこ》を吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。小六も黙って、座敷の隅《すみ》に立ててあった二枚折の抱一の屏風《びょうぶ》を眺《なが》めていた。
「御前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
「一昨日《おととい》佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、剥《は》げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」と宗助が云った。そうして苦笑しながら、
「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂《きちがい》じみているが、入れておく所がないから、仕方がない」と云う述懐《じゅっかい》をした。
 小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りに懸《か》け隔《へだ》たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩《けんか》はし得なかった。この時も急に癇癪《かんしゃく》の角《つの》を折られた気味で、
「屏風はどうでも好いが、これから先《さき》僕はどうしたもんでしょう」と聞き出した。
「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」と宗助が云った。
 弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌《きらい》である、学校へ出ても落ちついて稽古《けいこ》もできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分には堪《た》えられないと云う訴《うったえ》を切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。小六があまり癇《かん》の高
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