夫婦に紹介された。
「これがあの……」と叔母は逡巡《ためら》って宗助の方を見た。御米は何と挨拶《あいさつ》のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分を凌《しの》ぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入《はい》ろうという間際《まぎわ》であった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。
宗助と御米は一週ばかり宿屋|住居《ずまい》をして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。細々《こまごま》しい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取り揃《そろ》えて送って来た。その上、
「御前も新世帯だから、さぞ物要《ものいり》が多かろう」と云って金を六十円くれた。
家《うち》を持ってかれこれ取り紛《まぎ》れているうちに、早《はや》半月|余《よ》も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸《いえやしき》の事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。ある時御米が、
「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ云わないよ」と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」と御米がうす笑をした。
「だって、落ちついて、そんな事を云い出す暇《ひま》がないんだもの」と宗助が弁解した。
また十日ほど経《た》った。すると今度《こんだ》は宗助の方から、
「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒で厭《いや》になった」と云い出した。
「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」と御米が答えた。
「好いかい」と宗助が聞き返した。
「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私は先《せん》からどうでも好いんだわ」と御米が答えた。
その時宗助は、
「じゃ、鹿爪《しかつめ》らしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会《おり》があったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会《おり》がきっと出て来るよ」と云って延ばしてしまった。
小六は何不足なく叔父の家に寝起《ねおき》していた。試験を受けて高等学校へ這入《はい》れれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、その相談まですでに叔父と打合せがしてあるようであった。新らしく出京した兄からは別段学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに親しい相談も持ち込んで来なかった。従兄弟《いとこ》の安之助とは今までの関係上大変仲が好かった。かえってこの方が兄弟らしかった。
宗助は自然叔父の家《うち》に足が遠くなるようになった。たまに行っても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。しまいには時候の挨拶《あいさつ》を済ますと、すぐ帰りたくなる事もあった。こう云う時には三十分と坐《すわ》って、世間話に時間を繋《つな》ぐのにさえ骨が折れた。向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。
「まあいいじゃありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持がした。それでも、たまには行かないと、心のうちで気が咎《とが》めるような不安を感ずるので、また行くようになった。折々は、
「どうも小六が御厄介《ごやっかい》になりまして」とこっちから頭を下げて礼を云う事もあった。けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払って貰《もら》った地所家作についても、口を切るのがつい面倒になった。しかし宗助が興味を有《も》たない叔父の所へ、不精無精《ふしょうぶしょう》にせよ、時たま出掛けて行くのは、単に叔父|甥《おい》の血属関係を、世間並に持ち堪《こた》えるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、片をつけたい或物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明かであった。
「宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があった。すると叔父は、
「そうよなあ。やっぱり、ああ云う事があると、永《なが》くまで後《あと》へ響くものだからな」と答えて、因果《いんが》は恐ろしいと云う風をする。叔母は重ねて、
「本当に、怖《こわ》いもんですね。元はあんな寝入《ねい》った子《こ》じゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌《かっぱつ》でしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたように老《ふ》けちまって。今じゃあなたより御爺《おじい》さん御爺さんしていますよ」と云う。
「真逆《まさか》」と叔父がまた答える。
「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」と叔母がまた弁解する。
こんな会話が老夫婦の間に取り換わされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。実際彼は叔父の所へ来ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。
御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の敷居を跨《また》いだ事がない。むこうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧《ていねい》に接待するが、帰りがけに、
「どうです、ちと御出かけなすっちゃ」などと云われると、ただ、
「ありがとう」と頭を下げるだけで、ついぞ出掛けた試《ためし》はなかった。さすがの宗助さえ一度は、
「叔父さんの所へ一度行って見ちゃ、どうだい」と勧《すす》めた事があるが、
「でも」と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてその事を云い出さなかった。
両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎《せきずいのうまくえん》とかいう劇症《げきしょう》で、二三日|風邪《かぜ》の気味で寝《ね》ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓《ひしゃく》を持ったまま卒倒したなり、一日《いちんち》経《た》つか経たないうちに冷たくなってしまったのである。
「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」と宗助が云った。
「あなたまだ、あの事を聞くつもりだったの、あなたも随分|執念深《しゅうねんぶか》いのね」と御米が云った。
それからまた一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。
三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田《ほた》から向うへ突切《つっき》って、上総《かずさ》の海岸を九十九里伝いに、銚子《ちょうし》まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三日しか立たない、残暑の強い午後である。真黒に焦《こ》げた顔の中に、眼だけ光らして、見違えるように蛮色《ばんしょく》を帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入《はい》ったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るや否や、むっくり起き上がって、
「兄さん、少し御話があって来たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎ更《か》えずに、小六の話を聞いた。
小六の云うところによると、二三日前彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮限り、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然《ひとりで》にできるし、小遣《こづかい》も適宜《てきぎ》に貰えるので、父の存生中《ぞんしょうちゅう》と同じように、何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩までも、ついぞ学資と云う問題を頭に思い浮べた事がなかったため、叔母の宣告を受けた時は、茫然《ぼんやり》してとかくの挨拶《あいさつ》さえできなかったのだと云う。
叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間も掛かって委《くわ》しく説明してくれたそうである。それには叔父の亡《な》くなった事やら、継《つ》いで起る経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらが這入っていたのだと云う。
「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日《きょう》までいろいろ骨を折ったんだけれども」
叔母はこう云ったと小六は繰り返した。小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと云った事があるのを思い出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、
「そりゃ、あの時、宗《そう》さんが若干《いくら》か置いて行きなすった事は、行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きて御出《おいで》の時分から、御前の学資は融通して来たんだから」と答えた。
小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定《かんじょう》で、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう云われて見ると、一言《ひとこと》も返しようがなかった。
「御前《おまえ》も一人じゃなし、兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。その代り私《わたし》も宗さんに逢って、とっくり訳《わけ》を話しましょうから。どうも、宗さんも余《あん》まり近頃は御出《おいで》でないし、私も御無沙汰《ごぶさた》ばかりしているのでね、つい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ」と叔母は最後につけ加えたそうである。
小六から一部始終《いちぶしじゅう》を聞いた時、宗助はただ弟の顔を眺《なが》めて、一口、
「困ったな」と云った。昔のように赫《かっ》と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色《けしき》もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、悪《にく》いと思う様子も見えなかった。
自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分|壊《くず》れかかったのを、さも傍《はた》の人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子《こうし》の外に射す夕日をしばらく眺《なが》めていた。
その晩宗助は裏から大きな芭蕉《ばしょう》の葉を二枚|剪《き》って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んで涼《すず》みながら、小六の事を話した。
「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」と御米が聞いた。
「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡《りょうけん》か分らないがね」と宗助が云うと、御米は、
「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで団扇《うちわ》をはたはた動かした。宗助は何も云わずに、頸《くび》を延ばして、庇《ひさし》と崖《がけ》の間に細く映る空の色を眺めた。二人はそのまましばらく黙っていたが、良《やや》あって、
「だってそれじゃ無理ね」と御米がまた云った。
「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際《てぎわ》じゃ到底《とても》駄目だ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。叔母は、
「おやおや、まあ御珍らしい事」と云って、いつもよりは愛想《あいそ》よく宗助を款待《もてな》してくれた。その時宗助は厭《いや》なのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。叔母は固《もと》よりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。
叔母の云うところによると、宗助の邸宅《やしき》を売払った時、叔父の手に這入《はい》った金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行
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