然《いきなり》兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へ抛《な》げつけるや否や、馳《か》け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽《むぎわらぼう》を踏み潰《つぶ》してしまった。宗助は縁から跣足《はだし》で飛んで下りて、小六の頭を擲《なぐ》りつけた。その時から、宗助の眼には、小六が小悪《こにく》らしい小僧として映った。
 二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家《うち》へも帰《か》えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年ほど前に死んでいた。だから後には二十五六になる妾《めかけ》と、十六になる小六が残っただけであった。
 佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、家《うち》の始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから邸《やしき》を売るが好かろうと云う話であった。妾《めかけ》は相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。小六は当分叔父の家に引き取って世話をして貰《もら》う事にした。しかし肝心《かんじん》の家屋敷はすぐ右から左へと売れる訳《わけ》には行かなかった。仕方がないから、叔父に一時の工面《くめん》を頼んで、当座の片をつけて貰った。叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気《やまぎ》の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、旨《うま》い事を云って金を引き出したものである。宗助の父にも慾があったかも知れないが、この伝《でん》で叔父の事業に注《つ》ぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。
 父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。叔父は、
「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」と云った。
 道具類も積《せき》ばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品《こっとうひん》だけは、やはり気長に欲しがる人を探《さが》さないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。しかし月々自分の方から送るとすると、今日《こんにち》の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥《おちい》りそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分|宜《よろ》しくと頼んだ。自分が中途で失敗《しくじ》ったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥《ふたしか》な希望を残して、また広島へ帰って行った。
 それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほど経《た》っての返事に、優に例の立替を償《つぐな》うに足る金額だから心配しなくても好いとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから、仕方がないわね」と云って、例のごとく微笑した。その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地《いち》と事情の下《もと》に束縛《そくばく》されていたので、ついそれなりになってしまった。
 仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行《はんこう》で押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。
「これじゃしようがないよ」と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪《かぜ》を引いて寝《ね》たのが元で、腸窒扶斯《ちょうチフス》に変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。
 病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行《すいこう》せずに、やはり下り列車の走る方《かた》に自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、懐《ふところ》にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下《もと》に、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果《いんが》の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己《おれ》の栄華の頂点だったんだと、始めて醒《さ》めた眼に遠い霞《かすみ》を眺《なが》める事もあった。いよいよ苦しくなった時、
「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合《かけあ》ってみようかな」と云い出した。御米は無論|逆《さから》いはしなかった。ただ下を向いて、
「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目《ふしめ》になっている様子を見ると、急に勇気が挫《くじ》ける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、後《のち》には二月《ふたつき》に一返になり、三月《みつき》に一返になり、とうとう、
「好《い》いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢《あ》った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」と云い出した。
「それで、好《よ》ござんすとも」と御米は答えた。
 宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。小六からは時々手紙が来たが、極《きわ》めて短かい形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛《たわい》ない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。
 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪《た》えかねて、抱き合って暖《だん》を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
 二人の間には諦《あきら》めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫《おっと》を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心《まごころ》ある妻《さい》の口を藉《か》りて、自分を翻弄《ほんろう》する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤《つぐ》んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵《こしら》えた、過去という暗い大きな窖《あな》の中に落ちている。
 彼らは自業自得《じごうじとく》で、彼らの未来を塗抹《とまつ》した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦《あき》らめて、ただ二人手を携《たずさ》えて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固《もと》より多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近頃の相場なら、捨売《すてうり》にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米は淋《さみ》しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事|宜《よろ》しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方《ほう》がつかないんだもの」と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家《うち》と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」と御米が云う。
 そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、
「そのつもりが好くないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はその都度《つど》しだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。
 夫婦がこんな風に淋しく睦《むつ》まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧《かえり》みて、成効者《せいこうしゃ》の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。
 ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここに燻《くす》ぶっている事を聞き出して、強《し》いて面会を希望するので、宗助もやむを得ず我《が》を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭《おかげ》である。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助は箸《はし》を置いて、
「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。
「まあ結構ね」と御米が夫の顔を見た。
 東京に着いてから二三週間は、眼の回《まわ》るように日が経《た》った。新らしく世帯を有《も》って、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙《せわ》しなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜|劇《はげ》しく震盪《しんとう》する刺戟《しげき》とに駆《か》られて、何事をもじっと考える閑《ひま》もなく、また落ちついて手を下《くだ》す分別も出なかった。
 夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯《ひ》のせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、着《ちゃく》の時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥《まちくたび》れた気色《けしき》であった。
 宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗《そう》さん、しばらく御目に掛《か》からないうちに、大変|御老《おふ》けなすった事」という一句であった。御米はその折《おり》始めて叔父
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