らいた。互に抱《だ》き合って、丸い円を描《えが》き始めた。彼らの生活は淋《さみ》しいなりに落ちついて来た。その淋しい落ちつきのうちに、一種の甘い悲哀を味わった。文芸にも哲学にも縁のない彼らは、この味を舐《な》め尽しながら、自分で自分の状態を得意がって自覚するほどの知識を有《も》たなかったから、同じ境遇にある詩人や文人などよりも、一層純粋であった。――これが七日《なのか》の晩に坂井へ呼ばれて、安井の消息を聞くまでの夫婦の有様であった。
その夜宗助は家に帰って御米の顔を見るや否《いな》や、
「少し具合が悪いから、すぐ寝よう」と云って、火鉢《ひばち》に倚《よ》りながら、帰《かえり》を待ち受けていた御米を驚ろかした。
「どうなすったの」と御米は眼を上げて宗助を眺《なが》めた。宗助はそこに突っ立っていた。
宗助が外から帰って来て、こんな風をするのは、ほとんど御米の記憶にないくらい珍らしかった。御米は卒然何とも知れない恐怖の念に襲《おそ》われたごとくに立ち上がったが、ほとんど器械的に、戸棚《とだな》から夜具蒲団《やぐふとん》を取り出して、夫の云いつけ通り床を延べ始めた。その間宗助はやっぱり懐手《ふところで》をして傍《そば》に立っていた。そうして床が敷けるや否や、そこそこに着物を脱ぎ捨てて、すぐその中に潜《もぐ》り込んだ。御米は枕元を離れ得なかった。
「どうなすったの」
「何だか、少し心持が悪い。しばらくこうしてじっとしていたら、よくなるだろう」
宗助の答は半ば夜着の下から出た。その声が籠《こも》ったように御米の耳に響いた時、御米は済まない顔をして、枕元に坐《すわ》ったなり動かなかった。
「あっちへ行っていてもいいよ。用があれば呼ぶから」
御米はようやく茶の間へ帰った。
宗助は夜具を被《かぶ》ったまま、ひとり硬くなって眼を眠《ねむ》っていた。彼はこの暗い中で、坂井から聞いた話を何度となく反覆した。彼は満洲にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今が今まで予期していなかった。もう少しの事で、その安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合せか、向い合せに坐る運命になろうとは、今夜|晩食《ばんめし》を済ますまで、夢にも思いがけなかった。彼は寝ながら過去二三時間の経過を考えて、そのクライマックスが突如として、いかにも不意に起ったのを不思議に感じた。かつ悲しく感じた。彼はこれほど偶然な出来事を借りて、後《うしろ》から断りなしに足絡《あしがら》をかけなければ、倒す事のできないほど強いものとは、自分ながら任じていなかったのである。自分のような弱い男を放り出すには、もっと穏当《おんとう》な手段でたくさんでありそうなものだと信じていたのである。
小六《ころく》から坂井の弟、それから満洲、蒙古《もうこ》、出京、安井、――こう談話の迹《あと》を辿《たど》れば辿るほど、偶然の度はあまりにはなはだしかった。過去の痛恨を新《あらた》にすべく、普通の人が滅多《めった》に出逢わないこの偶然に出逢うために、千百人のうちから撰《え》り出されなければならないほどの人物であったかと思うと、宗助は苦しかった。また腹立たしかった。彼は暗い夜着の中で熱い息を吐《つ》いた。
この二三年の月日でようやく癒《なお》りかけた創口《きずぐち》が、急に疼《うず》き始めた。疼くに伴《つ》れて熱《ほて》って来た。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。宗助はいっそのこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。
「御米、御米」と二声呼んだ。
御米はすぐ枕元へ来て、上から覗《のぞ》き込むように宗助を見た。宗助は夜具の襟《えり》から顔を全く出した。次の間の灯《ひ》が御米の頬を半分照らしていた。
「熱い湯を一杯貰おう」
宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘《うそ》を吐《つ》いてごまかした。
翌日宗助は例のごとく起きて、平日と変る事なく食事を済ました。そうして給仕をしてくれる御米の顔に、多少安心の色が見えたのを、嬉《うれ》しいような憐《あわ》れなような一種の情緒《じょうしょ》をもって眺《なが》めた。
「昨夕《ゆうべ》は驚ろいたわ。どうなすったのかと思って」
宗助は下を向いて茶碗に注《つ》いだ茶を呑《の》んだだけであった。何と答えていいか、適当な言葉を見出さなかったからである。
その日は朝からから風が吹き荒《すさ》んで、折々|埃《ほこり》と共に行く人の帽を奪った。熱があると悪いから、一日休んだらと云う御米の心配を聞き捨てにして、例の通り電車へ乗った宗助は、風の音と車の音の中に首を縮《ちぢ》めて、ただ一つ所を見つめていた。降りる時、ひゅうという音がして、頭の上の針線《はりがね》が鳴ったのに気がついて、空を見たら、この猛烈な自然の力の狂う間に、いつもより明らかな日がのそりと出ていた。風は洋袴《ズボン》の股《また》を冷たくして過ぎた。宗助にはその砂を捲《ま》いて向うの堀の方へ進んで行く影が、斜めに吹かれる雨の脚《あし》のように判然《はっきり》見えた。
役所では用が手に着かなかった。筆を持って頬杖《ほおづえ》を突いたまま何か考えた。時々は不必要な墨を妄《みだ》りに磨《す》りおろした。煙草《たばこ》はむやみに呑んだ。そうしては、思い出したように窓硝子《まどガラス》を通して外を眺めた。外は見るたびに風の世界であった。宗助はただ早く帰りたかった。
ようやく時間が来て家《うち》へ帰ったとき、御米は不安らしく宗助の顔を見て、
「どうもなくって」と聞いた。宗助はやむを得ず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ炬燵《こたつ》の中へ入ったなり、晩食《ばんめし》まで動かなかった。そのうち風は日と共に落ちた。昼の反動で四隣《あたり》は急にひっそり静まった。
「好い案排《あんばい》ね、風が無くなって。昼間のように吹かれると、家に坐っていても何だか気味が悪くってしようがないわ」
御米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。宗助は落ちついて、
「今夜は少し暖《あっ》たかいようだね。穏《おだ》やかで好い御正月だ」と云った。飯を済まして煙草《たばこ》を一本吸う段になって、突然、
「御米、寄席《よせ》へでも行って見ようか」と珍らしく細君を誘った。御米は無論|否《いな》む理由を有《も》たなかった。小六は義太夫などを聞くより、宅《うち》にいて餅《もち》でも焼いて食った方が勝手だというので、留守を頼んで二人出た。
少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。二人は座蒲団《ざぶとん》を敷く余地もない一番|後《うしろ》の方に、立膝《たてひざ》をするように割り込まして貰った。
「大変な人ね」
「やっぱり春だから入るんだろう」
二人は小声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回《みまわ》した。その頭のうちで、高座《こうざ》に近い前の方は、煙草の煙で霞《かす》んでいるようにぼんやり見えた。宗助にはこの累々《るいるい》たる黒いものが、ことごとくこう云う娯楽の席へ来て、面白く半夜を潰《つぶ》す事のできる余裕のある人らしく思われた。彼はどの顔を見ても羨《うらや》ましかった。
彼は高座の方を正視して、熱心に浄瑠璃《じょうるり》を聞こうと力《つと》めた。けれどもいくら力めても面白くならなかった。時々眼を外《そ》らして、御米の顔を偸《ぬす》み見た。見るたびに御米の視線は正しい所を向いていた。傍《そば》に夫のいる事はほとんど忘れて、真面目《まじめ》に聴いているらしかった。宗助は羨《うら》やましい人のうちに、御米まで勘定《かんじょう》しなければならなかった。
中入の時、宗助は御米に、
「どうだ、もう帰ろうか」と云い掛けた。御米はその唐突《とうとつ》なのに驚ろかされた。
「厭なの」と聞いた。宗助は何とも答えなかった。御米は、
「どうでもいいわ」と半分夫の意に忤《さか》らわないような挨拶《あいさつ》をした。宗助はせっかく連れて来た御米に対して、かえって気の毒な心が起った。とうとうしまいまで辛抱《しんぼう》して坐っていた。
家《うち》へ帰ると、小六は火鉢《ひばち》の前に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、背表紙《せびょうし》の反《そ》り返るのも構わずに、手に持った本を上から翳《かざ》して読んでいた。鉄瓶《てつびん》は傍《わき》へ卸《おろ》したなり、湯は生温《なまぬ》るく冷《さ》めてしまった。盆の上に焼き余りの餅が三切《みきれ》か四片《よきれ》載《の》せてあった。網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。
小六は席を立って、
「面白かったですか」と聞いた。夫婦は十分ほど身体《からだ》を炬燵《こたつ》で暖めた上すぐ床へ入った。
翌日になっても宗助の心に落ちつきが来なかった事は、ほぼ前の日と同じであった。役所が退《ひ》けて、例の通り電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来ると云う事を想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、家《うち》へ帰って行くのが不合理に思われた。同時に安井はその後どんなに変化したろうと思うと、よそから一目彼の様子が眺《なが》めたくもあった。
坂井が一昨日《おととい》の晩、自分の弟《おとと》を評して、一口に「冒険者《アドヴェンチュアラー》」と云った、その音《おん》が今宗助の耳に高く響き渡った。宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不平と憎悪《ぞうお》と、乱倫と悖徳《はいとく》と、盲断と決行とを想像して、これらの一角《いっかく》に触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満洲からいっしょに出て来た安井が、いかなる程度の人物になったかを、頭の中で描《えが》いて見た。描かれた画《え》は無論|冒険者《アドヴェンチュアラー》の字面《じづら》の許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものであった。
かように、堕落の方面をとくに誇張した冒険者《アドヴェンチュアラー》を頭の中で拵《こしら》え上げた宗助は、その責任を自身一人で全く負わなければならないような気がした。彼はただ坂井へ客に来る安井の姿を一目見て、その姿から、安井の今日《こんにち》の人格を髣髴《ほうふつ》したかった。そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰藉《いしゃ》を得たかった。
彼は坂井の家《いえ》の傍《そば》に立って、向《むこう》に知れずに、他《ひと》を窺《うかが》うような便利な場所はあるまいかと考えた。不幸にして、身を隠すべきところを思いつき得なかった。もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜《べんぎ》があると同時に、暗い中を通る人の顔の分らない不都合があった。
そのうち電車が神田へ来た。宗助はいつもの通りそこで乗り換えて家《うち》の方へ向いて行くのが苦痛になった。彼の神経は一歩でも安井の来る方角へ近づくに堪《た》えなかった。安井をよそながら見たいという好奇心は、始めからさほど強くなかっただけに、乗換の間際《まぎわ》になって、全く抑《おさ》えつけられてしまった。彼は寒い町を多くの人のごとく歩いた。けれども多くの人のごとくに判然《はっきり》した目的は有《も》っていなかった。そのうち店に灯《ひ》が点《つ》いた。電車も灯火《あかり》を照《と》もした。宗助はある牛肉店に上がって酒を呑《の》み出した。一本は夢中に呑んだ。二本目は無理に呑んだ。三本目にも酔えなかった。宗助は背を壁に持たして、酔って相手のない人のような眼をして、ぼんやりどこかを見つめていた。
時刻が時刻なので、夕飯《ゆうめし》を食いに来る客は入れ代り立ち代り来た。その多くは用弁的《ようべんてき》に飲食《いんしょく》を済まして、さっさと勘定《かんじょう》をして出て行くだけであった。宗助は周囲のざわつく中に黙然《もくねん》として、他《ひと》の倍も三倍も時を過ごしたごとくに感じた末、ついに坐り切れずに席を立った。
表は左右から射す店の灯で明らかであった。軒先を通る人は、帽も衣装《いしょう》もはっきり物色する事が
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