たが、それは一時《いちじ》の事で、すぐ退《ひ》いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然《はっきり》しなかった。安井は黐《もち》のような熱に絡《から》みつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
 医者は少し呼吸器を冒《おか》されているようだからと云って、切に転地を勧めた。安井は心ならず押入の中の柳行李《やなぎごうり》に麻縄《あさなわ》を掛けた。御米は手提鞄《てさげかばん》に錠《じょう》をおろした。宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで室《へや》の中へ這入《はい》って、わざと陽気な話をした。プラットフォームへ下りた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」と安井が云った。
「どうぞ是非」と御米が言った。
 汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙を吐《は》いた。
 病人は転地先で年を越した。絵端書《えはがき》は着いた日から毎日のように寄こした。それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。御米の文字も一二行ずつは必ず交《まじ》っていた。宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。外から帰るとそれが直《すぐ》眼に着いた。時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。しまいにもうすっかり癒《なお》ったから帰る。しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾《いかん》だから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。無事と退屈を忌《い》む宗助を動かすには、この十数言《じゅうすうげん》で充分であった。宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。
 明るい灯火《ともしび》の下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢《いろつや》の回復して来た事に気がついた。立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣《シャツ》の袖《そで》を捲《まく》り上げて、青筋の入った腕を独《ひとり》で撫《な》でていた。御米も嬉《うれ》しそうに眼を輝かした。宗助にはその活溌《かっぱつ》な目遣《めづかい》がことに珍らしく受取れた。今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱《りょうらん》する裏《なか》に立ってさえ、極《きわ》めて落ちついていた。そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われなかった。
 次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹から脂《やに》の出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竈《かまど》の火の色に染めて行った。風は夜に入っても起らなかった。ただ時々松を鳴らして過ぎた。暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。
 宗助はもっと遊んで行きたいと云った。御米はもっと遊んで行きましょうと云った。安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。三人はまた行李《こうり》と鞄《かばん》を携《たずさ》えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにした斑《まだら》な雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
 宗助は当時を憶《おも》い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡《もた》げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易《か》える頃に終った。すべてが生死《しょうし》の戦《たたかい》であった。青竹を炙《あぶ》って油を絞《しぼ》るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
 世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負《しょわ》した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然《ぼうぜん》として、彼らの頭が確《たしか》であるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女《なんにょ》として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛《きまぐれ》に罪もない二人の不意を打って、面白半分|穽《おとしあな》の中に突き落したのを無念に思った。
 曝露《ばくろ》の日がまともに彼らの眉間《みけん》を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣《けいれん》の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白《あおしろ》い額を素直に前に出して、そこに※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》に似た烙印《やきいん》を受けた。そうして無形の鎖で繋《つな》がれたまま、手を携《たずさ》えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親を棄《す》てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹《あと》を留《とど》めた。
 これが宗助と御米の過去であった。

        十五

 この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として重い荷に抑《おさ》えつけられていた。佐伯《さえき》の家とは親しい関係が結べなくなった。叔父は死んだ。叔母と安之助《やすのすけ》はまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際《つきあい》はできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。今年はまだ歳暮にも行かなかった。向《むこう》からも来なかった。家《いえ》に引取った小六《ころく》さえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米《およね》を悪《にく》んでいた。御米にも宗助《そうすけ》にもそれがよく分っていた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。今年ももう尽きる間際《まぎわ》まで来た。
 通町《とおりちょう》では暮の内から門並揃《かどなみそろい》の注連飾《しめかざり》をした。往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹《ささ》が、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付《くぎづけ》にした。それから大きな赤い橙《だいだい》を御供《おそなえ》の上に載《の》せて、床の間に据《す》えた。床にはいかがわしい墨画《すみえ》の梅が、蛤《はまぐり》の格好《かっこう》をした月を吐《は》いてかかっていた。宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。
「いったいこりゃ、どう云う了見《りょうけん》だね」と自分で飾りつけた物を眺《なが》めながら、御米に聞いた。御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」と云って台所へ去った。宗助は、
「こうしておいて、つまり食うためか」と首を傾けて御供の位置を直した。
 伸餅《のしもち》は夜業《よなべ》に俎《まないた》を茶の間まで持ち出して、みんなで切った。庖丁《ほうちょう》が足りないので、宗助は始からしまいまで手を出さなかった。力のあるだけに小六が一番多く切った。その代り不同も一番多かった。中には見かけの悪い形のものも交った。変なのができるたびに清《きよ》が声を出して笑った。小六は庖丁の背に濡布巾《ぬれぶきん》をあてがって、硬い耳の所を断ち切りながら、
「格好はどうでも、食いさいすればいいんだ」と、うんと力を入れて耳まで赤くした。
 そのほかに迎年《げいねん》の支度としては、小殿原《ごまめ》を熬《い》って、煮染《にしめ》を重詰にするくらいなものであった。大晦日《おおみそか》の夜《よ》に入《い》って、宗助は挨拶《あいさつ》かたがた屋賃を持って、坂井の家に行った。わざと遠慮して勝手口へ回ると、摺硝子《すりガラス》へ明るい灯《ひ》が映って、中はざわざわしていた。上《あが》り框《がまち》に帳面を持って腰をかけた掛取らしい小僧が、立って宗助に挨拶をした。茶の間には主人も細君もいた。その片隅《かたすみ》に印袢天《しるしばんてん》を着た出入《でいり》のものらしいのが、下を向いて、小《ち》さい輪飾《わかざり》をいくつも拵《こしら》えていた。傍《そば》に譲葉《ゆずりは》と裏白《うらじろ》と半紙と鋏《はさみ》が置いてあった。若い下女が細君の前に坐って、釣銭らしい札《さつ》と銀貨を畳に並べていた。主人は宗助を見て、
「いやどうも」と云った。「押しつまってさぞ御忙《おいそが》しいでしょう。この通りごたごたです。さあどうぞこちらへ。何ですな、御互に正月にはもう飽《あ》きましたな。いくら面白いものでも四十|辺《ぺん》以上繰り返すと厭《いや》になりますね」
 主人は年の送迎に煩《わず》らわしいような事を云ったが、その態度にはどこと指してくさくさしたところは認められなかった。言葉遣《ことばづかい》は活溌《かっぱつ》であった。顔はつやつやしていた。晩食《ばんしょく》に傾けた酒の勢《いきおい》が、まだ頬の上に差しているごとく思われた。宗助は貰い煙草《たばこ》をして二三十分ばかり話して帰った。
 家《うち》では御米が清を連れて湯に行くとか云って、石鹸入《シャボンいれ》を手拭《てぬぐい》に包《くる》んで、留守居を頼む夫の帰《かえり》を待ち受けていた。
「どうなすったの、随分長かったわね」と云って時計を眺めた。時計はもう十時近くであった。その上清は湯の戻りに髪結《かみゆい》の所へ回って頭を拵《こしら》えるはずだそうであった。閑静な宗助の活計《くらし》も、大晦日《おおみそか》にはそれ相応《そうおう》の事件が寄せて来た。
「払《はらい》はもう皆《みんな》済んだのかい」と宗助は立ちながら御米に聞いた。御米はまだ薪屋《まきや》が一軒残っていると答えた。
「来たら払ってちょうだい」と云って懐《ふところ》の中から汚《よご》れた男持の紙入と、銀貨入の蟇口《がまぐち》を出して、宗助に渡した。
「小六はどうした」と夫はそれを受取ながら云った。
「先刻《さっき》大晦日の夜の景色《けしき》を見て来るって出て行ったのよ。随分御苦労さまね。この寒いのに」と云う御米の後《あと》に追《つ》いて、清は大きな声を出して笑った。やがて、
「御若いから」と評しながら、勝手口へ行って、御米の下駄《げた》を揃《そろ》えた。
「どこの夜景を見る気なんだ」
「銀座から日本橋通のだって」
 御米はその時もう框《かまち》から下《お》りかけていた。すぐ腰障子《こししょうじ》を開ける音がした。宗助はその音を聞き送って、たった一人|火鉢《ひばち》の前に坐って、灰になる炭の色を眺《なが》めていた。彼の頭には明日《あした》の日の丸が映った。外を乗り回す人の絹帽子《きぬぼうし》の光が見えた。洋剣《サアベル》の音だの、馬の嘶《いななき》だの、遣羽子《やりはご》の声が聞えた。彼は今から数時間の後《のち》また年中行事のうちで、もっとも人の心を新にすべく仕組まれた景物に出逢わなければならなかった。
 陽気そうに見えるもの、賑《にぎや》かそうに見えるものが、幾組となく彼の心の前を通り過ぎたが、その中で彼の臂《ひじ》を把《と》って、いっしょに引張って行こうとするものは一つもなかった。彼はただ饗宴《きょうえん》に招かれない局外者として、酔う事を禁じられたごとくに、また酔う事を免《まぬ》かれた人であった。彼は自分と御米の生命《ライフ》を、毎年平凡な波瀾《はらん》のうちに送る以上に、面前《まのあたり》大した希望も持っていなかった。こうして忙がしい大晦日に、一人家を守る静かさが、ちょうど彼の平生の現実を代表していた。
 御米は十時過に帰って来た。いつもより光沢《つや》の好い頬を灯《ひ》に照らして、湯の温《ぬくもり》のまだ抜けない襟《えり》を少し開けるように襦袢《じゅばん》を重ねていた。長
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