ざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、傍《はた》から見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって一人もできないときまっちまったら、あなただって好《よ》かないでしょう」
「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」
御米はなおと泣き出した。宗助も途方《とほう》に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、緩《ゆっ》くり御米の説明を聞いた。
夫婦は和合|同棲《どうせい》という点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。
始めて身重《みおも》になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯《やせじょたい》を張っている時であった。懐妊《かいにん》と事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、嬉《うれ》しい未来を一度に夢に見るような心持を抱《いだ》いて日を過ごした。宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉の塊《かたまり》が、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然|下《お》りてしまった。その時分の夫婦の活計《くらし》は苦しい苛《つら》い月ばかり続いていた。宗助は流産した御米の蒼《あお》い顔を眺めて、これも必竟《つまり》は世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩《くず》されて、永く手の裡《うち》に捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。
福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸《す》いものを嗜《たし》む人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、御米は万《よろず》に注意して、つつましやかに振舞っていた。そのせいか経過は至極《しごく》順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者に診《み》て貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。宗助の手際《てぎわ》では、室内に煖炉《だんろ》を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命を護《まも》った。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情《なさけ》の塊《かたまり》はついに冷たくなった。御米は幼児の亡骸《なきがら》を抱《だ》いて、
「どうしましょう」と啜《すす》り泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に和《か》するまで、一口も愚痴《ぐち》らしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人の間に挟《はさ》まっていた影のようなものが、しだいに遠退《とおの》いて、ほどなく消えてしまった。
すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶん身体《からだ》が衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣《きづか》ったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。ところがちょうど五月目《いつつきめ》になって、御米はまた意外の失敗《しくじり》をやった。その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流《いどながし》の傍《そば》に置いた盥《たらい》の傍まで行って話をしたついでに、流《ながし》を向《むこう》へ渡ろうとして、青い苔《こけ》の生えている濡《ぬ》れた板の上へ尻持《しりもち》を突いた。御米はまたやり損《そく》なったとは思ったが、自分の粗忽《そこつ》を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体《からだ》にも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去の失《しつ》を改めて宗助の前に告げた。宗助は固《もと》より妻を咎《とが》める意もなかった。ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生れるという間際《まぎわ》まで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子《こうし》の前に立った。そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いで宅《うち》へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
幸《さいわい》に御米の産気《さんけ》づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。産婆も緩《ゆっ》くり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取り揃《そろ》えてあった。産も案外軽かった。けれども肝心《かんじん》の小児《こども》は、ただ子宮を逃《のが》れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子《ガラス》の管のようなものを取って、小《ち》さい口の内《なか》へ強い呼息《いき》をしきりに吹き込んだが、効目《ききめ》はまるでなかった。生れたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴《ほうふつ》した。しかしその咽喉《のど》から出る声はついに聞く事ができなかった。
産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧《ていねい》に胎児の心臓まで聴診して、至極《しごく》御健全だと保証して行ったのである。よし産婆の云う事に間違があって、腹の児《こ》の発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それが直《すぐ》取り出されない以上、母体は今日《こんにち》まで平気に持ち応《こた》える訳がなかった。そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。胎児は出る間際まで健康であったのである。けれども臍帯纏絡《さいたいてんらく》と云って、俗に云う胞《えな》を頸《くび》へ捲《ま》きつけていた。こう云う異常の場合には、固《もと》より産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、旨《うま》く頸に掛かった胞を外《はず》して引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸を絡《から》んでいた臍帯は、時たまあるごとく一重《ひとえ》ではなかった。二重《ふたえ》に細い咽喉《のど》を巻いている胞を、あの細い所を通す時に外し損《そく》なったので、小児《こども》はぐっと気管を絞《し》められて窒息してしまったのである。
罪は産婆にもあった。けれどもなかば以上は御米の落度《おちど》に違なかった。臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅《しりもち》を搗《つ》いた五カ月前すでに自《みずか》ら醸《かも》したものと知れた。御米は産後の蓐中《じょくちゅう》にその始末を聞いて、ただ軽く首肯《うなず》いたぎり何にも云わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ眼を霑《うる》ませて、長い睫毛《まつげ》をしきりに動かした。宗助は慰さめながら、手帛《ハンケチ》で頬に流れる涙を拭《ふ》いてやった。
これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦《にが》い経験を甞《な》めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋《さむ》しく染めつけられて、容易に剥《は》げそうには見えなかった。時としては、彼我《ひが》の笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下《くだ》した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇《くらやみ》と明海《あかるみ》の途中に待ち受けて、これを絞殺《こうさつ》したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己《おのれ》を見傚《みな》さない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責《かしゃく》を人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それは身体《からだ》から云うと極《きわ》めて安静の三週間に違なかった。同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さい柩《ひつぎ》を拵《こし》らえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。しかる後、また死んだもののために小さな位牌《いはい》を作った。位牌には黒い漆《うるし》で戒名《かいみょう》が書いてあった。位牌の主《ぬし》は戒名を持っていた。けれども俗名《ぞくみょう》は両親《ふたおや》といえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪笥《たんす》の上へ載《の》せて、役所から帰ると絶えず線香を焚《た》いた。その香《におい》が六畳に寝ている御米の鼻に時々|通《かよ》った。彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌《いはい》を箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包《くる》んで丁寧《ていねい》に入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携《たずさ》えて、諸所を漂泊《ひょうはく》するの煩《わずら》わしさに堪《た》えなかったので、新らしい父の分だけを鞄《かばん》の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団《ふとん》の上に仰向《あおむけ》になったまま、この二つの小《ち》さい位牌を、眼に見えない因果《いんが》の糸を長く引いて互に結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳《おごそ》かな支配を認めて、その厳かな支配の下《もと》に立つ、幾月日《いくつきひ》の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛《のろい》の声を耳の傍《はた》に聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団《ふとん》の上に貪《むさ》ぼらなければならないように、生理的に強《し》いられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにも苛《つら》かったので、看護婦の帰った明《あく》る日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心に逼《せま》る不安は、容易に紛《まぎ》らせなかった。退儀《たいぎ》な身体《からだ》を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆《が
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