たのは、全くこの杉原の御蔭《おかげ》である。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助は箸《はし》を置いて、
「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。
「まあ結構ね」と御米が夫の顔を見た。
 東京に着いてから二三週間は、眼の回《まわ》るように日が経《た》った。新らしく世帯を有《も》って、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙《せわ》しなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜|劇《はげ》しく震盪《しんとう》する刺戟《しげき》とに駆《か》られて、何事をもじっと考える閑《ひま》もなく、また落ちついて手を下《くだ》す分別も出なかった。
 夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯《ひ》のせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、着《ちゃく》の時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥《まちくたび》れた気色《けしき》であった。
 宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗《そう》さん、しばらく御目に掛《か》からないうちに、大変|御老《おふ》けなすった事」という一句であった。御米はその折《おり》始めて叔父
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