君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と云ったが、冗談《じょうだん》でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「本当に好い御天気だわね」と半《なか》ば独《ひと》り言《ごと》のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫《しごと》を始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡《もた》げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易《やさし》い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日《こんにち》の今《こん》の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今《こん》らしくなくなって来る。――御前《おまい》そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。
 針箱と糸屑《いとくず》の上を飛び越すように跨《また》いで、茶の間の襖《ふすま》を開けると、
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