かりまくり上げた。
 午過《ひるすぎ》に帰って来て見ると、御米は金盥《かなだらい》の中に雑巾《ぞうきん》を浸《つ》けて、六畳の鏡台の傍《そば》に置いていた。その上の所だけ天井《てんじょう》の色が変って、時々|雫《しずく》が落ちて来た。
「靴ばかりじゃない。家《うち》の中まで濡《ぬ》れるんだね」と云って宗助は苦笑した。御米はその晩夫のために置炬燵《おきごたつ》へ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗《しまらしゃ》の洋袴《ズボン》を乾かした。
 明《あく》る日もまた同じように雨が降った。夫婦もまた同じように同じ事を繰り返した。その明る日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって、宗助は眉《まゆ》を縮めて舌打をした。
「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にも穿《は》けやしない」
「六畳だって困るわ、ああ漏《も》っちゃ」
 夫婦は相談して、雨が晴れしだい、家根を繕《つくろ》って貰うように家主《やぬし》へ掛け合う事にした。けれども靴の方は何ともしようがなかった。宗助はきしんで這入《はい》らないのを無理に穿《は》いて出て行った。
 幸《さいわい》にその日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀《すずめ》の鳴く小春日和《こはるびより》になった。宗助が帰った時、御米は例《いつも》より冴《さ》え冴《ざ》えしい顔色をして、
「あなた、あの屏風《びょうぶ》を売っちゃいけなくって」と突然聞いた。抱一《ほういつ》の屏風はせんだって佐伯《さえき》から受取ったまま、元の通り書斎の隅に立ててあったのである。二枚折だけれども、座敷の位置と広さから云っても、実はむしろ邪魔な装飾であった。南へ廻すと、玄関からの入口を半分|塞《ふさ》いでしまうし、東へ出すと暗くなる、と云って、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、
「せっかく親爺《おやじ》の記念《かたみ》だと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞《ばふさ》げで」と零《こぼ》した事も一二度あった。その都度《つど》御米は真丸な縁《ふち》の焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂芒《ほすすき》の色を眺《なが》めて、こんなものを珍重する人の気が知れないと云うような見えをした。けれども、夫を憚《はばか》って、明白《あから》さまには何とも云い出さなかった。ただ一返《いっぺん》
「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いた事があった。その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。しかしそれは自分が昔《むか》し父から聞いた覚《おぼえ》のある、朧気《おぼろげ》な記憶を好加減《いいかげん》に繰り返すに過ぎなかった。実際の画《え》の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもその実《じつ》はなはだ覚束《おぼつか》なかったのである。
 ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成《かたちづく》る原因となった。過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑《ほほえ》んだ。この日雨が上って、日脚《ひあし》がさっと茶の間の障子《しょうじ》に射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻《えりまき》ともつかない織物を纏《まと》って外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直《まっすぐ》に来ると、乾物《かんぶつ》屋と麺麭《パン》屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。今|火鉢《ひばち》に掛けてある鉄瓶《てつびん》も、宗助がここから提《さ》げて帰ったものである。
 御米は手を袖《そで》にして道具屋の前に立ち留まった。見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢《ひばち》が一番多く眼に着いた。しかし骨董《こっとう》と名のつくほどのものは、一つもないようであった。ひとり何とも知れぬ大きな亀の甲《こう》が、真向《まむこう》に釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子《ほっす》が尻尾《しっぽ》のように出ていた。それから紫檀《したん》の茶棚《ちゃだな》が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂《くるい》の出そうな生《なま》なものばかりであった。しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。ただ掛物も屏風《びょうぶ》も一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入《はい》った。
 御米は無論夫が佐伯から受取った屏風《びょうぶ》を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭《おかげ》で、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口を利《き》く事ができた。亭主は五十|恰好《かっこう》の色の黒い頬の瘠《こ》けた男で、鼈甲《べっこう》の縁《ふち》を取った馬鹿に大きな眼鏡《めが
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