ね》を掛けて、新聞を読みながら、疣《いぼ》だらけの唐金《からかね》の火鉢に手を翳《かざ》していた。
「そうですな、拝見に出てもようがす」と軽く受合ったが、別に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。しかし自分からがすでに大した望を抱《いだ》いて出て来た訳でもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見て貰わなければならなかった。
「ようがす。じゃのちほど伺いましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」
 御米はこの存在《ぞんざい》な言葉を聞いてそのまま宅《うち》へ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。一人でいつものように簡単な食事を済まして、清《きよ》に膳を下げさしていると、いきなり御免下さいと云って、大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと云って裏だの縁だのを撫《な》でていたが、
「御払《おはらい》になるなら」と少し考えて、「六円に頂いておきましょう」と否々《いやいや》そうに価《ね》を付けた。御米には道具屋の付けた相場が至当のように思われた。けれども一応宗助に話してからでなくっては、余り専断過ぎると心づいた上、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談して見た上でと答えたまま、道具屋を帰そうとした。道具屋は出掛に、
「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」と云った。御米はその時思い切って、
「でも、道具屋さん、ありゃ抱一《ほういつ》ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平気で、
「抱一は近来|流行《はや》りませんからな」と受け流したが、じろじろ御米の姿を眺《なが》めた上、
「じゃなおよく御相談なすって」と云い捨てて帰って行った。
 御米はその時の模様を詳しく話した後《あと》で、
「売っちゃいけなくって」とまた無邪気に聞いた。
 宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が、絶えず動いていた。ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計《くらし》を足ると諦《あき》らめる癖がついているので、毎月きまって這入《はい》るもののほかには、臨時に不意の工面《くめん》をしてまで、少しでも常以上に寛《くつ》ろいでみようと云う働は出なかった。話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。御米の思《おも》わくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金が入《はい》れば、宗助の穿《は》く新らしい靴を誂《あつ》らえた上、銘仙《めいせん》の一反ぐらいは買えると云うのである。宗助はそれもそうだと思った。けれども親から伝わった抱一の屏風《びょうぶ》を一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙《めいせん》を並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛《とっぴ》でかつ滑稽《こっけい》であった。
「売るなら売っていいがね。どうせ家《うち》に在《あ》ったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」
「だってまた降ると困るわ」
 宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。二人は顔を見合して笑っていた。やがて、
「安過ぎるでしょうか」と御米が聞いた。
「そうさな」と宗助が答えた。
 彼は安いと云われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものと諦《あきら》めていた。
「買手にも因《よ》るだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、余《あんま》り安いようだね」
 宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気を洩《も》らした。そうしてただ自分だけが弁護に価《あたい》しないもののように感じた。御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。
 翌日《あくるひ》宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。すると皆申し合せたように、それは価《ね》じゃないと云った。けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てて
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