おくよりほかに仕方がなかった。彼は元の通りそれを座敷へ立てておいた。すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと云い出した。夫婦は顔を見合して微笑《ほほえ》んだ。もう少し売らずに置いてみようじゃないかと云って、売らずにおいた。すると道具屋がまた来た。また売らなかった。御米は断るのが面白くなって来た。四度目《よたびめ》には知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。その時夫婦も立ちながら相談した。そうしてついに思い切って屏風を売り払った。

        七

 円明寺の杉が焦《こ》げたように赭黒《あかぐろ》くなった。天気の好い日には、風に洗われた空の端《は》ずれに、白い筋の嶮《けわ》しく見える山が出た。年は宗助《そうすけ》夫婦を駆《か》って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。朝になると欠かさず通る納豆売《なっとううり》の声が、瓦《かわら》を鎖《とざ》す霜《しも》の色を連想せしめた。宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。御米《およね》は台所で、今年も去年のように水道の栓《せん》が氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。夜になると夫婦とも炬燵《こたつ》にばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬を羨《うら》やんだ。
「まるで前の本多さんみたようね」と御米が笑った。前の本多さんと云うのは、やはり同じ構内《かまえうち》に住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。小女《こおんな》を一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな生計《くらし》を立てていた。御米が茶の間で、たった一人|裁縫《しごと》をしていると、時々|御爺《おじい》さんと云う声がした。それはこの本多の御婆さんが夫を呼ぶ声であった。門口《かどぐち》などで行き逢うと、丁寧《ていねい》に時候の挨拶《あいさつ》をして、ちと御話にいらっしゃいと云うが、ついぞ行った事もなければ、向うからも来た試《ためし》がない。したがって夫婦の本多さんに関する知識は極《きわ》めて乏しかった。ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府《とうかんふ》とかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送《しおくり》で、気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入《でいり》の商人のあるものから耳にした。
「御爺さんはやっぱり植木を弄《いじ》っているかい」
「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」
 話はそれから前の家《うち》を離れて、家主《やぬし》の方へ移った。これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もない賑《にぎ》やかそうな家庭に思われた。この頃は庭が荒れているので、大勢の小供が崖《がけ》の上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。折々は下女か何ぞの、台所の方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。
「ありゃいったい何をする男なんだい」と宗助が聞いた。この問は今までも幾度か御米に向って繰り返されたものであった。
「何にもしないで遊《あす》んでるんでしょう。地面や家作を持って」と御米が答えた。この答も今までにもう何遍か宗助に向って繰り返されたものであった。
 宗助はこれより以上立ち入って、坂井の事を聞いた事がなかった。学校をやめた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。それがしばらくすると、単なる憎悪《ぞうお》の念に変化した。ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着《むとんじゃく》になって、自分は自分のように生れついたもの、先は先のような運を持って世の中へ出て来たもの、両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えて貰う努力さえ出すのが面倒だった。御米にもこれと同じ傾きがあった。けれどもその夜《よ》は珍らしく、坂井の主人は四十|恰好《かっこう》の髯《ひげ》のない人であると云う事やら、ピヤノを弾くのは惣領《そうりょう》の娘で十二三になると云う事やら、またほかの家《うち》の小供が遊びに来ても、ブランコへ乗せてやらないと云う事やらを話した。
「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」
「つまり吝《けち》なんでしょう。早く悪くなるから」
 宗助は笑い出した。彼はそのくらい吝嗇《けち》な家主が、屋根が漏《も》ると云えば、すぐ瓦師《かわらし》を寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。
 その晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。彼は十時半頃床に入って、万象に
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