疲れた人のように鼾《いびき》をかいた。この間から頭の具合がよくないため、寝付《ねつき》の悪いのを苦にしていた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋を眺《なが》めた。細い灯《ひ》が床の間の上に乗せてあった。夫婦は夜中《よじゅう》灯火《あかり》を点《つ》けておく習慣がついているので、寝る時はいつでも心《しん》を細目にして洋灯《ランプ》をここへ上げた。
御米は気にするように枕の位置を動かした。そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団《ふとん》の上で滑《すべ》らした。しまいには腹這《はらばい》になったまま、両肱《りょうひじ》を突いて、しばらく夫の方を眺めていた。それから起き上って、夜具の裾《すそ》に掛けてあった不断着を、寝巻《ねまき》の上へ羽織《はお》ったなり、床の間の洋灯を取り上げた。
「あなたあなた」と宗助の枕元へ来て曲《こご》みながら呼んだ。その時夫はもう鼾をかいていなかった。けれども、元の通り深い眠《ねむり》から来る呼吸《いき》を続けていた。御米はまた立ち上って、洋灯を手にしたまま、間《あい》の襖《ふすま》を開けて茶の間へ出た。暗い部屋が茫漠《ぼんやり》手元の灯に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥《たんす》の環《かん》を認めた。それを通り過ぎると黒く燻《くす》ぶった台所に、腰障子《こししょうじ》の紙だけが白く見えた。御米は火の気《け》のない真中に、しばらく佇《たた》ずんでいたが、やがて右手に当る下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へ洋灯の灯を翳《かざ》した。下女は縞《しま》も色も判然《はっきり》映らない夜具の中に、土竜《もぐら》のごとく塊《かた》まって寝ていた。今度は左側の六畳を覗《のぞ》いた。がらんとして淋《さみ》しい中に、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけに凄《すご》く眼に応《こた》えた。
御米は家中を一回《ひとまわり》回った後《あと》、すべてに異状のない事を確かめた上、また床の中へ戻った。そうしてようやく眼を眠った。今度は好い具合に、眼蓋《まぶた》のあたりに気を遣《つか》わないで済むように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。
するとまたふと眼が開《あ》いた。何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。しかし今眼が覚《さ》めるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。そうして傍に寝ている夫の夜具の袖《そで》を引いて、今度は真面目《まじめ》に宗助を起し始めた。
宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼が覚《さ》めると、御米が、
「あなたちょっと起きて下さい」と揺《ゆす》っていたので、半分は夢中に、
「おい、好し」とすぐ蒲団《ふとん》の上へ起き直った。御米は小声で先刻《さっき》からの様子を話した。
「音は一遍した限《ぎり》なのかい」
「だって今したばかりなのよ」
二人はそれで黙った。ただじっと外の様子を伺っていた。けれども世間は森《しん》と静であった。いつまで耳を峙《そばだ》てていても、再び物の落ちて来る気色《けしき》はなかった。宗助は寒いと云いながら、単衣《ひとえ》の寝巻の上へ羽織を被《かぶ》って、縁側《えんがわ》へ出て、雨戸を一枚繰った。外を覗《のぞ》くと何にも見えない。ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌に逼《せま》って来た。宗助はすぐ戸を閉《た》てた。
※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》をおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へ潜《もぐ》り込んだが、
「何にも変った事はありゃしない。多分|御前《おまい》の夢だろう」と云って、宗助は横になった。御米はけっして夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執《こしつ》した。宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、
「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」と云った。
その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。二人は眼が冴《さ》えて、すぐ寝つかれそうにもなかった。御米が、
「でもあなたは気楽ね。横になると十分|経《た》たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と云った。
「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。
こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。すると表をがらがらと烈《はげ》しい音を立てて車が一台通った。近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて
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