「御米、御前《おまい》子供ができたんじゃないか」と笑いながら云った。御米は返事もせずに俯向《うつむ》いてしきりに夫の背広《せびろ》の埃《ほこり》を払った。刷毛《ブラッシ》の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐《すわ》っていた。はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。
 その晩夫婦は火鉢《ひばち》に掛けた鉄瓶《てつびん》を、双方から手で掩《おお》うようにして差し向った。
「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗《きれい》に浮んだ。
「ちっと、面白くしようじゃないか。この頃《ごろ》はいかにも不景気だよ」と宗助がまた云った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着の事が題目になった。宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖《こそで》とかを強請《ねだ》られた時、おれは細君の虚栄心を満足させるために稼《かせ》いでるんじゃないと云って跳《は》ねつけたら、細君がそりゃ非道《ひど》い、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか、毛布《けっと》を被《かぶ》るとかして、当分我慢しろと云った話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わした。御米は夫のこの様子を見て、昔がまた眼の前に戻ったような気がした。
「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套《マント》を拵《こしら》えたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦《こも》で盆栽《ぼんさい》の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」
「外套が欲しいって」
「ああ」
 御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、
「御拵《おこし》らえなさいな。月賦で」と云った。宗助は、
「まあ止そうよ」と急に侘《わび》しく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。
「来るのは厭なんでしょう」と御米が答えた。御米には、自分が始めから小六に嫌《きら》われていると云う自覚があった。それでも夫の弟だと思うので、なるべくは反《そり》を合せて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日《こんにち》まで仕向けて来た。そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅《こじゅうと》ぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一《ゆいいつ》の原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套《マント》を作るだけの勇気があるんだけれども」
 宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮《あご》を襟《えり》の中へ埋《う》めたまま、上眼《うわめ》を使って、
「小六さんは、まだ私の事を悪《にく》んでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度《つど》慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。
「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
 御米はこんな時に、こういう冗談《じょうだん》を云う女であった。宗助は
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
 翌日宗助が眼を覚《さ》ますと、亜鉛張《トタンばり》の庇《ひさし》の上で寒い音がした。御米が襷掛《たすきがけ》のまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴《てんてき》の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団《ふとん》の中に温《ぬく》もっていたかった。けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るや否《いな》や、
「おい」と云って直《すぐ》起き上った。
 外は濃い雨に鎖《とざ》されていた。崖《がけ》の上の孟宗竹《もうそうちく》が時々|鬣《たてがみ》を振《ふる》うように、雨を吹いて動いた。この侘《わ》びしい空の下へ濡《ぬ》れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁《みそしる》と暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中が濡《ぬ》れる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿《は》いて、洋袴《ズボン》の裾《すそ》を一寸《いっすん》ば
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