う見積っても両方寄せると、十円にはなる。十円と云う纏《まとま》った御金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって云うのよ」
「それじゃことしの暮まで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」
「だから、無理をしても、もう一二カ月のところだけは間に合せるから、そのうちにどうかして下さいと、安さんがそう云うんだって」
「実際できないのかな」
「そりゃ私《わたし》には分らないわ。何しろ叔母さんが、そう云うのよ」
「鰹舟《かつおぶね》で儲《もう》けたら、そのくらい訳なさそうなもんじゃないか」
「本当ね」
 御米は低い声で笑った。宗助もちょっと口の端《はた》を動かしたが、話はそれで途切《とぎ》れてしまった。しばらくしてから、
「何しろ小六は家《うち》へ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。後《あと》はその上の事だ。今じゃ学校へは出ているんだね」と宗助が云った。
「そうでしょう」と御米が答えるのを聞き流して、彼は珍らしく書斎に這入《はい》った。一時間ほどして、御米がそっと襖《ふすま》を開《あ》けて覗《のぞ》いて見ると、机に向って、何か読んでいた。
「勉強? もう御休みなさらなくって」と誘われた時、彼は振り返って、
「うん、もう寝よう」と答えながら立ち上った。
 寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、絞《しぼ》りの兵児帯《へこおび》をぐるぐる巻きつけながら、
「今夜は久し振に論語を読んだ」と云った。
「論語に何かあって」と御米が聞き返したら、宗助は、
「いや何にもない」と答えた。それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとても癒《なお》らないそうだ」と云いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。

        六

 小六《ころく》はともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調《ととの》った。御米《およね》は六畳に置きつけた桑《くわ》の鏡台を眺《なが》めて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると少し遣場《やりば》に困るのね」と訴えるように宗助《そうすけ》に告げた。実際ここを取り上げられては、御米の御化粧《おつくり》をする場所が無くなってしまうのである。宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側《まどぎわ》に据《す》えてある鏡の裏を斜《はす》に眺《なが》めた。すると角度の具合で、そこに御米の襟元《えりもと》から片頬が映っていた。それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、
「御前《おまい》、どうかしたのかい。大変色が悪いよ」と云いながら、鏡から眼を放して、実際の御米の姿を見た。鬢《びん》が乱れて、襟の後《うしろ》の辺《あたり》が垢《あか》で少し汚《よご》れていた。御米はただ、
「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側に付いている。一間《いっけん》の戸棚《とだな》を明けた。下には古い創《きず》だらけの箪笥《たんす》があって、上には支那鞄《しなかばん》と柳行李《やなぎごり》が二つ三つ載《の》っていた。
「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」
「だからそのままにしておくさ」
 小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じ憚《はばかり》があったので、いられる限《かぎり》は下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越を前《さき》へ送っていた。その癖《くせ》彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏苒《じんぜん》の境に落ちついてはいられなかったのである。
 そのうち薄い霜《しも》が降《お》りて、裏の芭蕉《ばしょう》を見事に摧《くだ》いた。朝は崖上《がけうえ》の家主《やぬし》の庭の方で、鵯《ひよどり》が鋭どい声を立てた。夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭《らっぱ》に交って、円明寺の木魚の音が聞えた。日はますます短かくなった。そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽《さや》かにはならなかった。夫《おっと》が役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。
 宗助は心配した。役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中で膝《ひざ》を拍《う》った。その日は例になく元気よく格子《こうし》を明けて、すぐと勢《いきおい》よく今日はどうだいと御米に聞いた。御米がいつもの通り服や靴足袋《くつたび》を一纏《ひとまと》めにして、六畳へ這入《はい》る後《あと》から追《つ》いて来て
前へ 次へ
全83ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング