かりか、肩も背《せな》も、腰の周《まわ》りも、心安く落ちついて、いかにも楽に調子が取れている事に気がついた。彼はただ仰向《あおむ》いて天井《てんじょう》から下っている瓦斯管《ガスかん》を眺めた。そうしてこの構《かまえ》と設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかも知れないと気遣《きづか》った。
ところへ顔の割に頭の薄くなり過ぎた肥《ふと》った男が出て来て、大変|丁寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をしたので、宗助は少し椅子の上で狼狽《あわて》たように首を動かした。肥った男は一応容体を聞いて、口中を検査して、宗助の痛いと云う歯をちょっと揺《ゆす》って見たが、
「どうもこう弛《ゆる》みますと、とても元のように緊《しま》る訳には参りますまいと思いますが。何しろ中がエソになっておりますから」と云った。
宗助はこの宣告を淋《さび》しい秋の光のように感じた。もうそんな年なんでしょうかと聞いて見たくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、
「じゃ癒《なお》らないんですか」と念を押した。
肥《ふと》った男は笑いながらこう云った。――
「まあ癒らないと申し上げるよりほかに仕方がござんせんな。やむを得なければ、思い切って抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただ御痛みだけを留めておきましょう。何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが、中がまるで腐っております」
宗助は、そうですかと云って、ただ肥った男のなすがままにしておいた。すると彼は器械をぐるぐる廻して、宗助の歯の根へ穴を開け始めた。そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先を嗅《か》いでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと云いながら、それを宗助に見せてくれた。それから薬でその穴を埋《う》めて、明日《みょうにち》またいらっしゃいと注意を与えた。
椅子《いす》を下りるとき、身体《からだ》が真直《まっす》ぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうと云う大きな鉢栽《はちうえ》の松が宗助の眼に這入《はい》った。その根方の所を、草鞋《わらじ》がけの植木屋が丁寧《ていねい》に薦《こも》で包《くる》んでいた。だんだん露が凝《こ》って霜《しも》になる時節なので、余裕《よゆう》のあるものは、もう今時分から手廻しをするのだと気がついた。
帰りがけに玄関脇の薬局で、粉薬《こぐすり》のまま含嗽剤《がんそうざい》を受取って、それを百倍の微温湯《びおんとう》に溶解して、一日十数回使用すべき注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代の案外|廉《れん》なのを喜んだ。これならば向うで云う通り四五回|通《かよ》ったところが、さして困難でもないと思って、靴を穿《は》こうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れている事に気がついた。
宅《うち》へ着いた時は一足違《ひとあしちがい》で叔母がもう帰ったあとであった。宗助は、
「おお、そうだったか」と云いながら、はなはだ面倒そうに洋服を脱ぎ更《か》えて、いつもの通り火鉢《ひばち》の前に坐った。御米は襯衣《シャツ》や洋袴《ズボン》や靴足袋《くつたび》を一抱《ひとかかえ》にして六畳へ這入《はい》った。宗助はぼんやりして、煙草《たばこ》を吹かし始めたが、向うの部屋で、刷毛《ブラッシ》を掛ける音がし出した時、
「御米、佐伯の叔母さんは何とか云って来たのかい」と聞いた。
歯痛《しつう》が自《おのず》から治《おさ》まったので、秋に襲《おそ》われるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがて御米が隠袋《ポッケット》から取り出して来た粉薬を、温《ぬる》ま湯に溶《と》いて貰《もら》って、しきりに含嗽《うがい》を始めた。その時彼は縁側《えんがわ》へ立ったまま、
「どうも日が短かくなったなあ」と云った。
やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵《よい》の口《くち》から寂《しん》としていた。夫婦は例の通り洋灯《ランプ》の下《もと》に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行く裡《うち》に、自分達の生命を見出していたのである。
この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産《みやげ》に買って来たと云う養老昆布《ようろうこぶ》の缶《かん》をがらがら振って、中から山椒《さんしょ》入《い》りの小さく結んだ奴を撰《よ》り出しながら、緩《ゆっ》くり佐伯からの返事を語り合った。
「しかし月謝と小遣《こづかい》ぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか」
「それができないんだって。ど
前へ
次へ
全83ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング