里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械を具《そな》え付けるようになったら、莫大《ばくだい》な利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりに掛《かか》っているようですよ。莫大な利益はありがたいが、そう凝《こ》って身体《からだ》でも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」
 叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云い出さなかった。もう疾《とう》に帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。
 彼はその日役所の帰りがけに駿河台下《するがだいした》まで来て、電車を下りて、酸《す》いものを頬張《ほおば》ったような口を穿《すぼ》めて一二町歩いた後《のち》、ある歯医者の門《かど》を潜《くぐ》ったのである。三四日前彼は御米と差向いで、夕飯の膳《ぜん》に着いて、話しながら箸《はし》を取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりと噛《か》んでから、それが急に痛み出した。指で揺《うご》かすと、根がぐらぐらする。食事の時には湯茶が染《し》みる。口を開けて息をすると風も染みた。宗助はこの朝歯を磨《みが》くために、わざと痛い所を避《よ》けて楊枝《ようじ》を使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀を埋《う》めた二枚の奥歯と、研《と》いだように磨《す》り減らした不揃《ぶそろ》の前歯とが、にわかに寒く光った。洋服に着換える時、
「御米、おれは歯の性《しょう》がよっぽど悪いと見えるね。こうやると大抵動くぜ」と下歯を指で動かして見せた。御米は笑いながら、
「もう御年のせいよ」と云って白い襟《えり》を後へ廻って襯衣《シャツ》へ着けた。
 宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。応接間へ通ると、大きな洋卓《テーブル》の周囲《まわり》に天鵞絨《びろうど》で張った腰掛が并《なら》んでいて、待ち合している三四人が、うずくまるように腮《あご》を襟《えり》に埋《うず》めていた。それが皆女であった。奇麗《きれい》な茶色の瓦斯暖炉《ガスストーヴ》には火がまだ焚《た》いてなかった。宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜《なな》めに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返して眺《なが》めた。それから「成功」と云う雑誌を取り上げた。その初めに、成効の秘訣《ひけつ》というようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日《こんにち》まで知らなかった。それでまた珍らしくなって、いったん伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名《かな》の交らない四角な字が二行ほど並んでいた。それには風《かぜ》碧落《へきらく》を吹《ふ》いて浮雲《ふうん》尽《つ》き、月《つき》東山《とうざん》に上《のぼ》って玉《ぎょく》一団《いちだん》とあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。対句《ついく》が旨《うま》くできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色《けしき》と同じような心持になれたら、人間もさぞ嬉《うれ》しかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いた後《あと》でも、しきりに彼の頭の中を徘徊《はいかい》した。彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。
 その時向うの戸が開《あ》いて、紙片《かみぎれ》を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。
 中へ這入《はい》ると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべく余計取れるように明るく拵《こし》らえた部屋の二側《ふたがわ》に、手術用の椅子《いす》を四台ほど据《す》えて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。書生が厚い縞入《しまいり》の前掛で丁寧《ていねい》に膝《ひざ》から下を包《くる》んでくれた。
 こう穏《おだ》やかに寝《ね》かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。それば
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