叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、
「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」と教えた。
小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
「そうですか」と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡《りょうけん》はないんだから」
「そりゃ、分っています」と弟は峻《けわ》しい物の云い方をした。
「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日《こんにち》まで悪いところだらけな男だもの」
宗助は横になって煙草《たばこ》を吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。小六も黙って、座敷の隅《すみ》に立ててあった二枚折の抱一の屏風《びょうぶ》を眺《なが》めていた。
「御前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
「一昨日《おととい》佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、剥《は》げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」と宗助が云った。そうして苦笑しながら、
「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂《きちがい》じみているが、入れておく所がないから、仕方がない」と云う述懐《じゅっかい》をした。
小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りに懸《か》け隔《へだ》たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩《けんか》はし得なかった。この時も急に癇癪《かんしゃく》の角《つの》を折られた気味で、
「屏風はどうでも好いが、これから先《さき》僕はどうしたもんでしょう」と聞き出した。
「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」と宗助が云った。
弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌《きらい》である、学校へ出ても落ちついて稽古《けいこ》もできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分には堪《た》えられないと云う訴《うったえ》を切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。小六があまり癇《かん》の高い不平を並べると、
「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこう差支《さしつかえ》ない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫《とんざ》して、小六はとうとう本郷へ帰って行った。
宗助はそれから湯を浴びて、晩食《ばんめし》を済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。夜露にあてた方がよかろうと云うので、崖下《がけした》の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。
蚊帳《かや》の中へ這入《はい》った時、御米は、
「小六さんの事はどうなって」と夫に聞くと、
「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりの後《のち》夫婦ともすやすや寝入《ねい》った。
翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇を有《も》たなかった。家《うち》へ帰って、のっそりしている時ですら、この問題を確的《はっきり》眼の前に描《えが》いて明らかにそれを眺《なが》める事を憚《はば》かった。髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩《わずら》わしさに堪《た》えなかった。昔は数学が好きで、随分込み入った幾何《きか》の問題を、頭の中で明暸《めいりょう》な図にして見るだけの根気があった事を憶《おも》い出すと、時日の割には非常に烈《はげ》しく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。
それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸の筋《きん》が一本|鉤《かぎ》に引っ掛ったような心を抱《いだ》いて、日を暮らしていた。
そのうち九月も末になって、毎晩|天《あま》の河《がわ》が濃く見えるある宵《よい》の事、空から降ったように安之助がやって来た。宗助にも御米にも思い掛けないほど稀《たま》な客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうと推《すい》したが、はたして小六に関する件であった。
この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入《
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