はい》れずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれを遮《さえ》ぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。自分が大学を卒業しないから、他《ひと》も中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。元来今度の事も元を糺《ただ》せば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので、他が何を云っても取り合ってくれない。だから、ただ頼りにするのは君だけだ。叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。
 安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまた家《うち》へ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。帰るときに、小六は袂《たもと》から半紙を何枚も出して、欠席届が入用《にゅうよう》だからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。
 安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具体的の案は別に出なかった。いずれ緩《ゆっ》くりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するが好かろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、御米は宗助に、
「何を考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を兵児帯《へこおび》の間に挟《はさ》んで、心持肩を高くしたなり、
「おれももう一返小六みたようになって見たい」と云った。「こっちじゃ、向《むこう》がおれのような運命に陥《おちい》るだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
 御米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床《とこ》を延べて寝《ね》た。夢の上に高い銀河《あまのがわ》が涼しく懸《かか》った。
 次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信《たより》もなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。夫婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日を廂《ひさし》の上に見た。夜は煤竹《すすだけ》の台を着けた洋灯《ランプ》の両側に、長い影を描《えが》いて坐っていた。話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞える事も稀《まれ》ではなかった。
 それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかに途《みち》はない。佐伯ではいったんああ云い出したようなものの、頼んで見たら、当分|宅《うち》へ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。が、その上修業をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任《たんにん》しなければ義理が悪い。ところがそれは家計上宗助の堪《た》えるところでなかった。月々の収支を事細かに計算して見た両人《ふたり》は、
「とうてい駄目だね」
「どうしたって無理ですわ」と云った。
 夫婦の坐《すわ》っている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間《ひとま》ある。下女を入れて三人の小人数《こにんず》だから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分の鏡台を置いた。宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物を脱《ぬ》ぎ更《か》えた。
「それよりか、あの六畳を空《あ》けて、あすこへ来ちゃいけなくって」と御米が云い出した。御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から助《すけ》て貰《もら》ったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」と御米が云い添えた。実は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対《あべこべ》に相談を掛けられて見ると、固《もと》よりそれを拒《こば》むだけの勇気はなかった。
 小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支《さしつかえ》なければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、傘《からかさ》に音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたように嬉《うれ》しがった。
「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから、そ
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