がら、その顛末《てんまつ》を語って聞かした。
宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方《うりさばきかた》を真田《さなだ》とかいう懇意の男に依頼した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某《だれそれがし》が何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとか号《ごう》して、品物を持って行ったぎり、返して来ない。催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつて埒《らち》の明いた試《ためし》がなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。
「でもね、まだ屏風《びょうぶ》が一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度《こんだ》ついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」
叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。宗助も今日《きょう》まで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を有《も》ち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色《けしき》のない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。それでも、叔母が、
「宗さん、どうせ家《うち》じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変|価《ね》が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
納戸《なんど》から取り出して貰って、明るい所で眺《なが》めると、たしかに見覚《みおぼえ》のある二枚折であった。下に萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、芒《すすき》、葛《くず》、女郎花《おみなえし》を隙間《すきま》なく描《か》いた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空《あ》いた所へ、野路《のじ》や空月の中なる女郎花、其一《きいち》と題してある。宗助は膝《ひざ》を突いて銀の色の黒く焦《こ》げた辺《あたり》から、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福《だいふく》ほどな大きな丸い朱の輪廓《りんかく》の中に、抱一《ほういつ》と行書で書いた落款《らっかん》をつくづくと見て、父の生きている当時を憶《おも》い起さずにはいられなかった。
父は正月になると、きっとこの屏風《びょうぶ》を薄暗い蔵《くら》の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀《したん》の角《かく》な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床《とこ》には必ず虎の双幅《そうふく》を懸《か》けた。これは岸駒《がんく》じゃない岸岱《がんたい》だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画《え》には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑《の》んでいる鼻柱が少し汚《けが》されたのを、父は苛《ひど》く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯《いたずら》だぞと云って、おかしいような恨《うら》めしいような一種の表情をした。
宗助は屏風《びょうぶ》の前に畏《かしこ》まって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。
宗助は然《しか》るべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩食《ばんめし》の後《のち》御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣《ゆかた》を並べて、涼みながら、画の話をした。
「安さんには、御逢いなさらなかったの」と御米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「随分骨が折れるでしょうね」
御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言《ひとこと》の批評も加えなかった。
「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と云うだけであった。
「理窟《りくつ》を云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠《しょうこ》も何もなければ勝てる訳のものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」
夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇《ひさし》の下から覗《のぞ》いて見て、明日《あした》の天気を語り合って蚊帳《かや》に這入《はい》った。
次の日曜に宗助は小六を呼んで、
前へ
次へ
全83ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング