くってよ」と御米が云う。
そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、
「そのつもりが好くないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はその都度《つど》しだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。
夫婦がこんな風に淋しく睦《むつ》まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧《かえり》みて、成効者《せいこうしゃ》の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。
ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここに燻《くす》ぶっている事を聞き出して、強《し》いて面会を希望するので、宗助もやむを得ず我《が》を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭《おかげ》である。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助は箸《はし》を置いて、
「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。
「まあ結構ね」と御米が夫の顔を見た。
東京に着いてから二三週間は、眼の回《まわ》るように日が経《た》った。新らしく世帯を有《も》って、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙《せわ》しなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜|劇《はげ》しく震盪《しんとう》する刺戟《しげき》とに駆《か》られて、何事をもじっと考える閑《ひま》もなく、また落ちついて手を下《くだ》す分別も出なかった。
夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯《ひ》のせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、着《ちゃく》の時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥《まちくたび》れた気色《けしき》であった。
宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗《そう》さん、しばらく御目に掛《か》からないうちに、大変|御老《おふ》けなすった事」という一句であった。御米はその折《おり》始めて叔父夫婦に紹介された。
「これがあの……」と叔母は逡巡《ためら》って宗助の方を見た。御米は何と挨拶《あいさつ》のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分を凌《しの》ぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入《はい》ろうという間際《まぎわ》であった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。
宗助と御米は一週ばかり宿屋|住居《ずまい》をして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。細々《こまごま》しい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取り揃《そろ》えて送って来た。その上、
「御前も新世帯だから、さぞ物要《ものいり》が多かろう」と云って金を六十円くれた。
家《うち》を持ってかれこれ取り紛《まぎ》れているうちに、早《はや》半月|余《よ》も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸《いえやしき》の事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。ある時御米が、
「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ云わないよ」と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」と御米がうす笑をした。
「だって、落ちついて、そんな事を云い出す暇《ひま》がないんだもの」と宗助が弁解した。
また十日ほど経《た》った。すると今度《こんだ》は宗助の方から、
「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒で厭《いや》になった」と云い出した。
「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」と御米が答えた。
「好いかい」と宗助が聞き返した。
「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私は先《せん》からどうでも好いんだわ」と御米が答えた。
その時宗助は、
「じゃ、鹿爪《しかつめ》らしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会《おり》があったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会《おり》がきっと出て来るよ」と云って延ばしてしまった。
小六は何不足なく叔父の家に寝起《ねおき》していた。試験を受けて高等学校へ這入《はい》れれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うの
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