いくらい衰えてしまった。
病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行《すいこう》せずに、やはり下り列車の走る方《かた》に自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、懐《ふところ》にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下《もと》に、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果《いんが》の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己《おれ》の栄華の頂点だったんだと、始めて醒《さ》めた眼に遠い霞《かすみ》を眺《なが》める事もあった。いよいよ苦しくなった時、
「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合《かけあ》ってみようかな」と云い出した。御米は無論|逆《さから》いはしなかった。ただ下を向いて、
「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目《ふしめ》になっている様子を見ると、急に勇気が挫《くじ》ける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、後《のち》には二月《ふたつき》に一返になり、三月《みつき》に一返になり、とうとう、
「好《い》いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢《あ》った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」と云い出した。
「それで、好《よ》ござんすとも」と御米は答えた。
宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。小六からは時々手紙が来たが、極《きわ》めて短かい形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛《たわい》ない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。
夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪《た》えかねて、抱き合って暖《だん》を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
二人の間には諦《あきら》めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫《おっと》を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心《まごころ》ある妻《さい》の口を藉《か》りて、自分を翻弄《ほんろう》する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤《つぐ》んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵《こしら》えた、過去という暗い大きな窖《あな》の中に落ちている。
彼らは自業自得《じごうじとく》で、彼らの未来を塗抹《とまつ》した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦《あき》らめて、ただ二人手を携《たずさ》えて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固《もと》より多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近頃の相場なら、捨売《すてうり》にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米は淋《さみ》しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事|宜《よろ》しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方《ほう》がつかないんだもの」と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家《うち》と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れな
前へ
次へ
全83ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング