じた。彼は主人に向って、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」と聞いて見たくて堪《たま》らなかった。けれども、それだけはどうしても聞けなかった。
 下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。一丁の豆腐ぐらいな大きさの金玉糖《きんぎょくとう》の中に、金魚が二疋|透《す》いて見えるのを、そのまま庖丁《ほうちょう》の刃を入れて、元の形を崩《くず》さずに、皿に移したものであった。宗助は一目見て、ただ珍らしいと感じた。けれども彼の頭はむしろ他の方面に気を奪われていた。すると主人が、
「どうです一つ」と例《いつも》の通りまず自分から手を出した。
「これはね、昨日《きのう》ある人の銀婚式に呼ばれて、貰《もら》って来たのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切ぐらい肖《あやか》ってもいいでしょう」
 主人は肖りたい名の下《もと》に、甘垂《あまた》るい金玉糖《きんぎょくとう》を幾切か頬張《ほおば》った。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男であった。
「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺《しわ》だらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。こういう風に、それからそれへと客を飽《あ》かせないように引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。
 彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝《どぶ》のような細い流の中に、春先になると無数の蛙《かえる》が生れるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠《どぶ》の中で成立する。そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間《すきま》なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互に睦《むつ》まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人《ひまじん》が、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数がほとんど勘定《かんじょう》し切れないほど多くなるのだそうである。
「死屍累々《ししるいるい》とはあの事ですね。それが皆《みんな》夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪《にく》らしいって、石で頭を破《わ》られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全くおめでたいに違ありませんよ。だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう」と云って、主人はわざと箸《はし》で金玉糖を挟《はさ》んで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた。
 こんな冗談交《じょうだんまじ》りの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむを得ず或る辺までは釣られて行った。けれども腹の中はけっして主人のように太平楽《たいへいらく》には行かなかった。辞して表へ出て、また月のない空を眺《なが》めた時は、その深く黒い色の下に、何とも知れない一種の悲哀と物凄《ものすご》さを感じた。
 彼は坂井の家に、ただいやしくも免《まぬ》かれんとする料簡《りょうけん》で行った。そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と真率《しんそつ》の気に充《み》ちた主人に対して、政略的に談話を駆《か》った。しかも知ろうと思う事はことごとく知る事ができなかった。己《おの》れの弱点に付いては、一言《ひとこと》も彼の前に自白するの勇気も必要も認めなかった。
 彼の頭を掠《かす》めんとした雨雲《あまぐも》は、辛《かろ》うじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。

        二十三

 月が変ってから寒さがだいぶ緩《ゆる》んだ。官吏の増俸問題につれて必然起るべく、多数の噂《うわさ》に上った局員課員の淘汰《とうた》も、月末までにほぼ片づいた。その間ぽつりぽつりと首を斬《き》られる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助《そうすけ》は、時々家へ帰って御米《およね》に、
「今度《こんだ》はおれの番かも知れない」と云う事があった。御米はそれを冗談《じょうだん》とも聞き、また本気とも聞いた。まれには隠れた未来を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釈した。それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が去来した。
 月が改って、役所の動揺もこれで一段落だと沙汰《さた》せられた時、宗助は生き残った自分の運命を顧《かえ》りみて、当然のようにも思った。また偶然のようにも思った。立ちなが
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