から病気はどうだと聞かれた。中には少し瘠《や》せたようですねと云うものもあった。宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞えた。菜根譚《さいこんたん》を読む男はただどうです旨《うま》く行きましたかと尋ねた。宗助はこの問にもだいぶ痛い思をした。
その晩はまた御米と小六から代る代る鎌倉の事を根掘り葉掘り問われた。
「気楽でしょうね。留守居《るすい》も何もおかないで出られたら」と御米が云った。
「それで一日《いちんち》いくら出すと置いてくれるんです」と小六が聞いた。「鉄砲でも担《かつ》いで行って、猟《りょう》でもしたら面白かろう」とも云った。
「しかし退屈ね。そんなに淋《さむ》しくっちゃ。朝から晩まで寝ていらっしゃる訳にも行かないでしょう」と御米がまた云った。
「もう少し滋養物が食える所でなくっちゃあ、やっぱり身体《からだ》によくないでしょう」と小六がまた云った。
宗助はその夜床の中へ入って、明日《あした》こそ思い切って、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞き糺《ただ》して、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越してしまおうと考えた。
次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落した。夜《よ》に入《い》って彼は、
「ちょっと坂井さんまで行って来る」と云い捨てて門を出た。月のない坂を上って、瓦斯灯《ガスとう》に照らされた砂利を鳴らしながら潜戸《くぐりど》を開けた時、彼は今夜ここで安井に落ち合うような万一はまず起らないだろうと度胸を据《す》えた。それでもわざと勝手口へ回って、御客来ですかと聞くことは忘れなかった。
「よくおいでです。どうも相変らず寒いじゃありませんか」と云う常の通り元気の好い主人を見ると、子供を大勢自分の前へ並べて、その中《うち》の一人と掛声をかけながら、じゃん拳《けん》をやっていた。相手の女の子の年は、六つばかりに見えた。赤い幅のあるリボンを蝶々《ちょうちょう》のように頭の上にくっつけて、主人に負けないほどの勢で、小さな手を握り固めてさっと前へ出した。その断然たる様子と、その握《にぎ》り拳《こぶし》の小ささと、これに反して主人の仰山《ぎょうさん》らしく大きな拳骨《げんこつ》が、対照になって皆《みんな》の笑を惹《ひ》いた。火鉢《ひばち》の傍《はた》に見ていた細君は、
「そら今度《こんだ》こそ雪子の勝だ」と云って愉快そうに綺麗《きれい》な歯を露《あら》わした。子供の膝《ひざ》の傍《そば》には白だの赤だの藍《あい》だのの硝子玉《ガラスだま》がたくさんあった。主人は、
「とうとう雪子に負けた」と席を外《はず》して、宗助の方を向いたが、「どうですまた洞窟《とうくつ》へでも引き込みますかな」と云って立ち上がった。
書斎の柱には、例のごとく錦の袋に入れた蒙古刀《もうことう》が振《ぶ》ら下《さ》がっていた。花活《はないけ》にはどこで咲いたか、もう黄色い菜の花が挿《さ》してあった。宗助は床柱の中途を華《はな》やかに彩《いろ》どる袋に眼を着けて、
「相変らず掛かっておりますな」と云った。そうして主人の気色《けしき》を頭の奥から窺《うかが》った。主人は、
「ええちと物数奇《ものずき》過ぎますね、蒙古刀は」と答えた。「ところが弟《おとと》の野郎そんな玩具《おもちゃ》を持って来ては、兄貴を籠絡《ろうらく》するつもりだから困りものじゃありませんか」
「御舎弟《ごしゃてい》はその後どうなさいました」と宗助は何気ない風を示した。
「ええようやく四五日前帰りました。ありゃ全く蒙古向ですね。御前のような夷狄《いてき》は東京にゃ調和しないから早く帰れったら、私《わたし》もそう思うって帰って行きました。どうしても、ありゃ万里の長城の向側《むこうがわ》にいるべき人物ですよ。そうしてゴビの沙漠《さばく》の中で金剛石《ダイヤモンド》でも捜していればいいんです」
「もう一人の御伴侶《おつれ》は」
「安井ですか、あれも無論いっしょです。ああなると落ちついちゃいられないと見えますね。何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」
宗助は腋《わき》の下から汗が出た。安井がどう変って、どう落ちつかないのか、全く聞く気にはならなかった。ただ自分が主人に安井と同じ大学にいた事を、まだ洩《も》らさなかったのを天祐《てんゆう》のようにありがたく思った。けれども主人はその弟と安井とを晩餐《ばんさん》に呼ぶとき、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。辞退をしてその席へ顔を出す不面目だけはやっと免《まぬ》かれたようなものの、その晩主人が何かの機会《はずみ》につい自分の名を二人に洩《も》らさないとは限らなかった。宗助は後暗《うしろぐら》い人の、変名《へんみょう》を用いて世を渡る便利を切に感
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