、
「敲いても駄目だ。独《ひと》りで開けて入れ」と云う声が聞えただけであった。彼はどうしたらこの門の閂《かんのき》を開ける事ができるかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵《こしら》えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事ができなかった。したがって自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫《ごう》も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便《たより》に生きて来た。その分別が今は彼に祟《たた》ったのを口惜《くちおし》く思った。そうして始から取捨も商量も容《い》れない愚なものの一徹一図を羨《うらや》んだ。もしくは信念に篤《あつ》い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進《しょうじん》の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立《たたず》むべき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿《たど》りつくのが矛盾であった。彼は後《うしろ》を顧《かえり》みた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有《も》たなかった。彼は前を眺《なが》めた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮《さえ》ぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦《すく》んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
宗助は立つ前に、宜道と連れだって、老師の許《もと》へちょっと暇乞《いとまごい》に行った。老師は二人を蓮池《れんち》の上の、縁に勾欄《こうらん》の着いた座敷に通した。宜道は自《みずか》ら次の間に立って、茶を入れて出た。
「東京はまだ寒いでしょう」と老師が云った。「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しい事で」
宗助は老師のこの挨拶《あいさつ》に対して、丁寧《ていねい》に礼を述べて、また十日前に潜《くぐ》った山門を出た。甍《いらか》を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後《うしろ》に聳《そび》えた。
二十二
家の敷居を跨《また》いだ宗助《そうすけ》は、己《おの》れにさえ憫然《びんぜん》な姿を描《えが》いた。彼は過去十日間毎朝頭を冷水《れいすい》で濡《ぬ》らしたなり、いまだかつて櫛《くし》の歯を通した事がなかった。髭《ひげ》は固《もと》より剃《そ》る暇《いとま》を有《も》たなかった。三度とも宜道《ぎどう》の好意で白米の炊《かし》いだのを食べたには食べたが、副食物と云っては、菜の煮たのか、大根の煮たのぐらいなものであった。彼の顔は自《おのず》から蒼《あお》かった。出る前よりも多少|面窶《おもやつ》れていた。その上彼は一窓庵で考えつづけに考えた習慣がまだ全く抜け切らなかった。どこかに卵を抱《いだ》く牝鶏《めんどり》のような心持が残って、頭が平生の通り自由に働らかなかった。その癖《くせ》一方では坂井の事が気にかかった。坂井と云うよりも、坂井のいわゆる冒険者《アドヴェンチュアラー》として宗助の耳に響いたその弟《おとと》と、その弟の友達として彼の胸を騒がした安井の消息が気にかかった。けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞き糺《ただ》す勇気を有たなかった。間接にそれを御米《およね》に問うことはなおできなかった。彼は山にいる間さえ、御米がこの事件について何事も耳にしてくれなければいいがと気遣《きづか》わない日はなかったくらいである。宗助は年来住み慣れた家の座敷に坐って、
「汽車に乗ると短かい道中でも気のせいか疲れるね。留守中に別段変った事はなかったかい」と聞いた。実際彼は短かい汽車旅行にさえ堪《た》えかねる顔つきをしていた。
御米はいかな場合にも夫の前に忘れなかった笑顔さえ作り得なかった。と云って、せっかく保養に行った転地先から今帰って来たばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話し悪《にく》かった。わざと活溌《かっぱつ》に、
「いくら保養でも、家《うち》へ帰ると、少しは気疲《きづかれ》が出るものよ。けれどもあなたは余《あん》まり爺々汚《じじむさ》いわ。後生《ごしょう》だから一休《ひとやすみ》したら御湯に行って頭を刈って髭《ひげ》を剃《す》って来てちょうだい」と云いながら、わざわざ机の引出から小さな鏡を出して見せた。
宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で払ったような心持がした。一たび山を出て家へ帰ればやはり元の宗助であった。
「坂井さんからはその後何とも云って来ないかい」
「いいえ何とも」
「小六《ころく》の事も」
「いいえ」
その小六は図書館へ行って留守だった。宗助は手拭《てぬぐい》と石鹸《シャボン》を持って外へ出た。
明る日役所へ出ると、みんな
前へ
次へ
全83ページ中80ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング