くら考えてもこの最初の解決は確なものであると信じていた。ただ理窟《りくつ》から割り出したのだから、腹の足《たし》にはいっこうならなかった。彼はこの確なものを放り出して、さらにまた確なものを求めようとした。けれどもそんなものは少しも出て来なかった。
彼は自分の室《へや》で独《ひと》り考えた。疲れると、台所から下りて、裏の菜園へ出た。そうして崖《がけ》の下に掘った横穴の中へ這入《はい》って、じっと動かずにいた。宜道は気が散るようでは駄目だと云った。だんだん集注して凝《こ》り固まって、しまいに鉄の棒のようにならなくては駄目だと云った。そう云う事を聞けば聞くほど、実際にそうなるのが、困難になった。
「すでに頭の中に、そうしようと云う下心があるからいけないのです」と宜道がまた云って聞かした。宗助はいよいよ窮した。忽然《こつぜん》安井の事を考え出した。安井がもし坂井の家へ頻繁《ひんぱん》に出入《でいり》でもするようになって、当分満洲へ帰らないとすれば、今のうちあの借家《しゃくや》を引き上げて、どこかへ転宅するのが上分別《じょうふんべつ》だろう。こんな所にぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の所置をつけた方がまだ実際的かも知れない。緩《ゆっ》くり構えて、御米にでも知れるとまた心配が殖《ふ》えるだけだと思った。
「私のようなものにはとうてい悟《さとり》は開かれそうに有りません」と思いつめたように宜道を捕《つら》まえて云った。それは帰る二三日《にさんち》前の事であった。
「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」と宜道は躊躇《ちゅうちょ》もなく答えた。「法華《ほっけ》の凝《こ》り固まりが夢中に太鼓を叩《たた》くようにやって御覧なさい。頭の巓辺《てっぺん》から足の爪先までがことごとく公案で充実したとき、俄然《がぜん》として新天地が現前するのでございます」
宗助は自分の境遇やら性質が、それほど盲目的に猛烈な働《はたらき》をあえてするに適しない事を深く悲しんだ。いわんや自分のこの山で暮らすべき日はすでに限られていた。彼は直截《ちょくせつ》に生活の葛藤《かっとう》を切り払うつもりで、かえって迂濶《うかつ》に山の中へ迷い込んだ愚物《ぐぶつ》であった。
彼は腹の中でこう考えながら、宜道の面前で、それだけの事を言い切る力がなかった。彼は心からこの若い禅僧の勇気と熱心と真面目《まじめ》と親切とに敬意を表していたのである。
「道は近きにあり、かえってこれを遠きに求むという言葉があるが実際です。つい鼻の先にあるのですけれども、どうしても気がつきません」と宜道はさも残念そうであった。宗助はまた自分の室《へや》に退《しりぞ》いて線香を立てた。
こう云う状態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日まで、目に立つほどの新生面を開く機会なく続いた。いよいよ出立の朝になって宗助は潔《いさぎ》よく未練を抛《な》げ棄《す》てた。
「永々御世話になりました。残念ですが、どうも仕方がありません。もう当分御眼にかかる折もございますまいから、随分|御機嫌《ごきげん》よう」と宜道に挨拶《あいさつ》をした。宜道は気の毒そうであった。
「御世話どころか、万事不行届でさぞ御窮屈でございましたろう。しかしこれほど御坐りになってもだいぶ違います。わざわざおいでになっただけの事は充分ございます」と云った。しかし宗助にはまるで時間を潰《つぶ》しに来たような自覚が明らかにあった。それをこう取り繕《つく》ろって云って貰《もら》うのも、自分の腑甲斐《ふがい》なさからであると、独《ひと》り恥じ入った。
「悟の遅速は全く人の性質《たち》で、それだけでは優劣にはなりません。入りやすくても後《あと》で塞《つか》えて動かない人もありますし、また初め長く掛かっても、いよいよと云う場合に非常に痛快にできるのもあります。けっして失望なさる事はございません。ただ熱心が大切です。亡《な》くなられた洪川和尚《こうせんおしょう》などは、もと儒教をやられて、中年からの修業でございましたが、僧になってから三年の間と云うものまるで一則《いっそく》も通らなかったです。それで私《わし》は業《ごう》が深くて悟れないのだと云って、毎朝|厠《かわや》に向って礼拝《らいはい》されたくらいでありましたが、後にはあのような知識になられました。これなどはもっとも好い例です」
宜道はこんな話をして、暗《あん》に宗助が東京へ帰ってからも、全くこの方を断念しないようにあらかじめ間接の注意を与えるように見えた。宗助は謹《つつし》んで、宜道のいう事に耳を借した。けれども腹の中では大事がもうすでに半分去ったごとくに感じた。自分は門を開《あ》けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側《むこうがわ》にいて、敲《たた》いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ
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