。宗助は無論手ぶらであった。提唱《ていしょう》と云うのが、学校でいう講義の意味である事さえ、ここへ来て始めて知った。
室《へや》は高い天井《てんじょう》に比例して広くかつ寒かった。色の変った畳の色が古い柱と映《て》り合って、昔を物語るように寂《さ》び果てていた。そこに坐っている人々も皆地味に見えた。席次不同に思い思いの座を占めてはいるが、高声《こうせい》に語るもの、笑うものは一人もなかった。僧は皆|紺麻《こんあさ》の法衣《ころも》を着て、正面の曲※[#「碌−石」、第3水準1−84−27]《きょくろく》の左右に列を作って向い合せに並んだ。その曲※[#「碌−石」、第3水準1−84−27]は朱で塗ってあった。
やがて老師が現われた。畳を見つめていた宗助には、彼がどこを通って、どこからここへ出たかさっぱり分らなかった。ただ彼の落ちつき払って曲※[#「碌−石」、第3水準1−84−27]に倚《よ》る重々しい姿を見た。一人の若い僧が立ちながら、紫《むらさき》の袱紗《ふくさ》を解いて、中から取り出した書物を、恭《うやうや》しく卓上に置くところを見た。またその礼拝《らいはい》して退《しり》ぞく態《さま》[#「態」は底本では「熊」]を見た。
この時堂上の僧は一斉《いっせい》に合掌《がっしょう》して、夢窓国師《むそうこくし》の遺誡《いかい》を誦《じゅ》し始めた。思い思いに席を取った宗助の前後にいる居士《こじ》も皆|同音《どうおん》に調子を合せた。聞いていると、経文のような、普通の言葉のような、一種の節を帯びた文字であった。
「我に三等の弟子あり。いわゆる猛烈にして諸縁《しょえん》を放下《ほうげ》し、専一に己事《こじ》を究明するこれを上等と名づく。修業純ならず駁雑《はくざつ》学を好む、これを中等と云う」と云々という、余り長くはないものであった。宗助は始め夢窓国師《むそうこくし》の何人《なんびと》なるかを知らなかった。宜道からこの夢窓国師と大燈国師《だいとうこくし》とは、禅門中興の祖であると云う事を教わったのである。平生|跛《ちんば》で充分に足を組む事ができないのを憤《いきどお》って、死ぬ間際《まぎわ》に、今日《きょう》こそおれの意のごとくにして見せると云いながら、悪い方の足を無理に折っぺしょって、結跏《けっか》したため、血が流れて法衣《ころも》を煮染《にじ》ましたという大燈国師の話もその折《おり》宜道から聞いた。
やがて提唱が始まった。宜道は懐《ふところ》から例の書物を出して、頁《ページ》を半《なか》ば擦《ず》らして宗助の前へ置いた。それは宗門無尽燈論《しゅうもんむじんとうろん》と云う書物であった。始めて聞きに出た時、宜道は、
「ありがたい結構な本です」と宗助に教えてくれた。白隠和尚《はくいんおしょう》の弟子の東嶺《とうれい》和尚とかいう人の編輯《へんしゅう》したもので、重に禅を修行するものが、浅い所から深い所へ進んで行く径路やら、それに伴なう心境の変化やらを秩序立てて書いたものらしかった。
中途から顔を出した宗助には、よくも解《げ》せなかったけれども、講者《こうじゃ》は能弁の方で、黙って聞いているうちに、大変面白いところがあった。その上参禅の士を鼓舞《こぶ》するためか、古来からこの道に苦しんだ人の閲歴譚《えつれきだん》などを取《と》り交《ま》ぜて、一段の精彩を着けるのが例であった。この日もその通りであったが、或所へ来ると、突然語調を改めて、
「この頃室中に来って、どうも妄想《もうぞう》が起っていけないなどと訴えるものがあるが」と急に入室者の不熱心を戒しめ出したので、宗助は覚えずぎくりとした。室中に入って、その訴《うったえ》をなしたものは実に彼自身であった。
一時間の後宜道と宗助は袖《そで》をつらねてまた一窓庵に帰った。その帰り路に宜道は、
「ああして提唱のある時に、よく参禅者の不心得を諷《ふう》せられます」と云った。宗助は何も答えなかった。
二十一
そのうち、山の中の日は、一日一日と経《た》った。御米《およね》からはかなり長い手紙がもう二本来た。もっとも二本とも新たに宗助《そうすけ》の心を乱すような心配事は書いてなかった。宗助は常の細君思いに似ずついに返事を出すのを怠った。彼は山を出る前に、何とかこの間の問題に片をつけなければ、せっかく来た甲斐《かい》がないような、また宜道《ぎどう》に対してすまないような気がしていた。眼が覚《さ》めている時は、これがために名状しがたい一種の圧迫を受けつづけに受けた。したがって日が暮れて夜が明けて、寺で見る太陽の数が重なるにつけて、あたかも後から追いかけられでもするごとく気を焦《いら》った。けれども彼は最初の解決よりほかに、一歩もこの問題にちかづく術《すべ》を知らなかった。彼はまたい
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