ら、御米を見下して、
「まあ助かった」とむずかし気《げ》に云った。その嬉《うれ》しくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちた滑稽《こっけい》に見えた。
 また二三日して宗助の月給が五円昇った。
「原則通り二割五分増さないでも仕方があるまい。休《や》められた人も、元給のままでいる人もたくさんあるんだから」と云った宗助は、この五円に自己以上の価値をもたらし帰ったごとく満足の色を見せた。御米は無論の事心のうちに不足を訴えるべき余地を見出さなかった。
 翌日《あくるひ》の晩宗助はわが膳《ぜん》の上に頭《かしら》つきの魚《うお》の、尾を皿の外に躍《おど》らす態《さま》を眺めた。小豆《あずき》の色に染まった飯の香《かおり》を嗅《か》いだ。御米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六《ころく》を招いた。小六は、
「やあ御馳走《ごちそう》だなあ」と云って勝手から入って来た。
 梅がちらほらと眼に入《い》るようになった。早いのはすでに色を失なって散りかけた。雨は煙るように降り始めた。それが霽《は》れて、日に蒸《む》されるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新にすべき湿気がむらむらと立ち上《のぼ》った。背戸《せど》に干した雨傘《あまがさ》に、小犬がじゃれかかって、蛇《じゃ》の目の色がきらきらする所に陽炎《かげろう》が燃えるごとく長閑《のどか》に思われる日もあった。
「ようやく冬が過ぎたようね。あなた今度《こんだ》の土曜に佐伯《さえき》の叔母さんのところへ回って、小六さんの事をきめていらっしゃいよ。あんまりいつまでも放っておくと、また安《やす》さんが忘れてしまうから」と御米が催促した。宗助は、
「うん、思い切って行って来《き》よう」と答えた。小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。その上に宗助と安之助が、不足のところを分担する事ができたらと小六に云って聞かしたのは、宗助自身であった。小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直談判《じきだんぱん》をした。そうして、形式的に宗助の方から依頼すればすぐ安之助が引き受けるまでに自分で埒《らち》を明けたのである。
 小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜の午《ひる》宗助は久しぶりに、四日目の垢《あか》を流すため横町の洗場に行ったら、五十ばかりの頭を剃《そ》った男と、三十代の商人《あきんど》らしい男が、ようやく春らしくなったと云って、時候の挨拶《あいさつ》を取り換わしていた。若い方が、今朝始めて鶯《うぐいす》の鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私《わたし》は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。
「まだ鳴きはじめだから下手だね」
「ええ、まだ充分に舌《した》が回りません」
 宗助は家《うち》へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子《しょうじ》の硝子《ガラス》に映る麗《うらら》かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉《まゆ》を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪《き》りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏《はさみ》を動かしていた。



底本:「夏目漱石全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年3月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:高橋知仁
1999年4月22日公開
2007年3月8日修正
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