間際《まぎわ》に、おや悟ったなと喜ぶことがあるが、さていよいよ眼を開《あ》いて見ると、やっぱり元の通の自分なので失望するばかりだと云って、宗助を笑わした。こう云う気楽な考で、参禅している人もあると思うと、宗助も多少は寛《くつ》ろいだ。けれども三人が分れ分れに自分の室《へや》に入る時、宜道が、
「今夜は御誘い申しますから、これから夕方までしっかり御坐りなさいまし」と真面目《まじめ》に勧《すす》めたとき、宗助はまた一種の責任を感じた。消化《こな》れない堅い団子が胃に滞《とどこ》おっているような不安な胸を抱《いだ》いて、わが室へ帰って来た。そうしてまた線香を焚《た》いて坐わり出した。その癖《くせ》夕方までは坐り続けられなかった。どんな解答にしろ一つ拵《こし》らえておかなければならないと思いながらも、しまいには根気が尽きて、早く宜道が夕食《ゆうめし》の報知《しらせ》に本堂を通り抜けて来てくれれば好いと、そればかり気にかかった。
 日は懊悩《おうのう》と困憊《こんぱい》の裡《うち》に傾むいた。障子《しょうじ》に映る時の影がしだいに遠くへ立ち退《の》くにつれて、寺の空気が床《ゆか》の下から冷え出した。風は朝から枝を吹かなかった。縁側《えんがわ》に出て、高い庇《ひさし》を仰ぐと、黒い瓦《かわら》の小口だけが揃《そろ》って、長く一列に見える外に、穏《おだや》かな空が、蒼《あお》い光をわが底の方に沈めつつ、自分と薄くなって行くところであった。

        十九

「危険《あぶの》うございます」と云って宜道《ぎどう》は一足先へ暗い石段を下りた。宗助《そうすけ》はあとから続いた。町と違って夜になると足元が悪いので、宜道は提灯《ちょうちん》を点《つ》けてわずか一丁ばかりの路《みち》を照らした。石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右から二人の頭に蔽《お》い被《かぶ》さるように空を遮《さえぎ》った。闇《やみ》だけれども蒼い葉の色が二人の着物の織目に染み込むほどに宗助を寒がらせた。提灯の灯《ひ》にもその色が多少映る感じがあった。その提灯は一方に大きな樹の幹を想像するせいか、はなはだ小さく見えた。光の地面に届く尺数もわずかであった。照らされた部分は明るい灰色の断片となって暗い中にほっかり落ちた。そうして二人の影が動くに伴《つ》れて動いた。
 蓮池《れんち》を行き過ぎて、左へ上《のぼ》る所は、夜はじめての宗助に取って、少し足元が滑《なめら》かに行かなかった。土の中に根を食っている石に、一二度|下駄《げた》の台を引っ掛けた。蓮池の手前から横に切れる裏路もあるが、この方は凸凹《とつおう》が多くて、慣《な》れない宗助には近くても不便だろうと云うので、宜道はわざわざ広い方を案内したのである。
 玄関を入ると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。宗助は曲《こご》んで、人の履物《はきもの》を踏まないようにそっと上へのぼった。室《へや》は八畳ほどの広さであった。その壁際《かべぎわ》に列を作って、六七人の男が一側《ひとかわ》に並んでいた。中に頭を光らして、黒い法衣《ころも》を着た僧も交っていた。他《ほか》のものは大概|袴《はかま》を穿《は》いていた。この六七人の男は上《あが》り口《ぐち》と奥へ通ずる三尺の廊下《ろうか》口を残して、行儀よく鉤《かぎ》の手《て》に並んでいた。そうして、一言《ひとこと》も口を利《き》かなかった。宗助はこれらの人の顔を一目見て、まずその峻刻《しゅんこく》なのに気を奪われた。彼らは皆固く口を結んでいた。事ありげな眉《まゆ》を強く寄せていた。傍《そば》にどんな人がいるか見向きもしなかった。いかなるものが外から入って来ても、全く注意しなかった。彼らは活きた彫刻のように己《おの》れを持して、火の気のない室《へや》に粛然《しゅくぜん》と坐っていた。宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、一種|厳《おごそ》かな気が加わった。
 やがて寂寞《せきばく》の中《うち》に、人の足音が聞えた。初は微《かす》かに響いたが、しだいに強く床《ゆか》を踏んで、宗助の坐っている方へ近づいて来た。しまいに一人の僧が廊下口からぬっと現れた。そうして宗助の傍《そば》を通って、黙って外の暗がりへ抜けて行った。すると遠くの奥の方で鈴《れい》を振る音がした。
 この時宗助と並んで厳粛《げんしゅく》に控えていた男のうちで、小倉《こくら》の袴《はかま》を着けた一人が、やはり無言のまま立ち上がって、室の隅《すみ》の廊下口の真正面へ来て着座した。そこには高さ二尺幅一尺ほどの木の枠《わく》の中に、銅鑼《どら》のような形をした、銅鑼よりも、ずっと重くて厚そうなものがかかっていた。色は蒼黒《あおぐろ》く貧しい灯《ひ》に照らされていた。袴を着けた男は、台の上にある撞木《しゅもく》を取り上げて、銅鑼に似た鐘の真中を
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