らすより、いっそその道の書物でも借りて読む方が、要領を得る捷径《ちかみち》ではなかろうかと思いついた。宜道にそう云うと、宜道は一も二もなく宗助の考を排斥した。
「書物を読むのはごく悪うございます。有体《ありてい》に云うと、読書ほど修業の妨《さまたげ》になるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当《けんとう》がつきません。それを好加減《いいかげん》に揣摩《しま》する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界《きょうがい》を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫《とんざ》ができます。大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。もし強《し》いて何か御読みになりたければ、禅関策進《ぜんかんさくしん》というような、人の勇気を鼓舞《こぶ》したり激励したりするものが宜《よろ》しゅうございましょう。それだって、ただ刺戟《しげき》の方便として読むだけで、道その物とは無関係です」
宗助には宜道の意味がよく解らなかった。彼はこの生若《なまわか》い青い頭をした坊さんの前に立って、あたかも一個の低能児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨《しょうま》し尽していた。彼は平凡を分として、今日《こんにち》まで生きて来た。聞達《ぶんたつ》ほど彼の心に遠いものはなかった。彼はただありのままの彼として、宜道の前に立ったのである。しかも平生の自分より遥《はる》かに無力無能な赤子《あかご》であると、さらに自分を認めざるを得なくなった。彼に取っては新らしい発見であった。同時に自尊心を根絶するほどの発見であった。
宜道が竈《へっつい》の火を消して飯をむらしている間に、宗助は台所から下りて庭の井戸端《いどばた》へ出て顔を洗った。鼻の先にはすぐ雑木山《ぞうきやま》が見えた。その裾《すそ》の少し平《たいら》な所を拓《ひら》いて、菜園が拵《こしら》えてあった。宗助は濡《ぬ》れた頭を冷たい空気に曝《さら》して、わざと菜園まで下りて行った。そうして、そこに崖《がけ》を横に掘った大きな穴を見出した。宗助はしばらくその前に立って、暗い奥の方を眺《なが》めていた。やがて、茶の間へ帰ると、囲炉裏《いろり》には暖かい火が起って、鉄瓶《てつびん》に湯の沸《たぎ》る音が聞えた。
「手がないものだから、つい遅くなりまして御気の毒です。すぐ御膳《ごぜん》に致しましょう。しかしこんな所だから上げるものがなくって困ります。その代り明日《あした》あたりは御馳走《ごちそう》に風呂《ふろ》でも立てましょう」と宜道が云ってくれた。宗助はありがたく囲炉裏《いろり》の向《むこう》に坐った。
やがて食事を了《お》えて、わが室《へや》へ帰った宗助は、また父母未生《ふぼみしょう》以前《いぜん》と云う稀有《けう》な問題を眼の前に据《す》えて、じっと眺《なが》めた。けれども、もともと筋の立たない、したがって発展のしようのない問題だから、いくら考えてもどこからも手を出す事はできなかった。そうして、すぐ考えるのが厭《いや》になった。宗助はふと御米にここへ着いた消息を書かなければならない事に気がついた。彼は俗用の生じたのを喜こぶごとくに、すぐ鞄《かばん》の中から巻紙と封じ袋を取り出して、御米にやる手紙を書き始めた。まずここの閑静な事、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かい事、空気の清朗な事、紹介された坊さんの親切な事、食事の不味《まず》い事、夜具蒲団《やぐふとん》の綺麗《きれい》に行かない事、などを書き連ねているうちに、はや三尺余りの長さになったので、そこで筆を擱《お》いたが、公案に苦しめられている事や、坐禅をして膝《ひざ》の関節を痛くしている事や、考えるためにますます神経衰弱が劇《はげ》しくなりそうな事は、噫《おくび》にも出さなかった。彼はこの手紙に切手を貼《は》って、ポストに入れなければならない口実を求めて、早速山を下った。そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅《おびや》かされながら、村の中をうろついて帰った。
午《ひる》には、宜道から話のあった居士《こじ》に会った。この居士は茶碗を出して、宜道に飯を盛《よそ》って貰《もら》うとき、憚《はば》かり様とも何とも云わずに、ただ合掌《がっしょう》して礼を述べたり、相図をしたりした。このくらい静かに物事を為《す》るのが法だとか云った。口を利《き》かず、音を立てないのは、考えの邪魔になると云う精神からだそうであった。それほど真剣にやるべきものをと、宗助は昨夜からの自分が、何となく恥ずかしく思われた。
食後三人は囲炉裏の傍《はた》でしばらく話した。その時居士は、自分が坐禅をしながら、いつか気がつかずにうとうとと眠ってしまっていて、はっと正気に帰る
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