た》すかは、彼自身といえども全く知らなかった。彼は悟《さとり》という美名に欺《あざむ》かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、はかない望を抱いたのである。
 彼は冷たい火鉢《ひばち》の灰の中に細い線香を燻《くゆ》らして、教えられた通り座蒲団《ざぶとん》の上に半跏《はんか》を組んだ。昼のうちはさまでとは思わなかった室《へや》が、日が落ちてから急に寒くなった。彼は坐りながら、背中のぞくぞくするほど温度の低い空気に堪《た》えなかった。
 彼は考えた。けれども考える方向も、考える問題の実質も、ほとんど捕《つら》まえようのない空漠《くうばく》なものであった。彼は考えながら、自分は非常に迂濶《うかつ》な真似《まね》をしているのではなかろうかと疑《うたが》った。火事見舞に行く間際《まぎわ》に、細かい地図を出して、仔細《しさい》に町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当違の所作《しょさ》を演じているごとく感じた。
 彼の頭の中をいろいろなものが流れた。そのあるものは明らかに眼に見えた。あるものは混沌《こんとん》として雲のごとくに動いた。どこから来てどこへ行くとも分らなかった。ただ先のものが消える、すぐ後《あと》から次のものが現われた。そうして仕切りなしにそれからそれへと続いた。頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、けっして宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。断ち切ろうと思えば思うほど、滾々《こんこん》として湧《わ》いて出た。
 宗助は怖《こわ》くなって、急に日常の我を呼び起して、室の中を眺《なが》めた。室は微《かす》かな灯《ひ》で薄暗く照らされていた。灰の中に立てた線香は、まだ半分ほどしか燃えていなかった。宗助は恐るべく時間の長いのに始めて気がついた。
 宗助はまた考え始めた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。ぞろぞろと群がる蟻《あり》のごとくに動いて行く、あとからまたぞろぞろと群がる蟻のごとくに現われた。じっとしているのはただ宗助の身体《からだ》だけであった。心は切ないほど、苦しいほど、堪えがたいほど動いた。
 そのうちじっとしている身体も、膝頭《ひざがしら》から痛み始めた。真直に延ばしていた脊髄がしだいしだいに前の方に曲って来た。宗助は両手で左の足の甲を抱《かか》えるようにして下へおろした。彼は何をする目的《めあて》もなく室《へや》の中に立ち上がった。障子《しょうじ》を明けて表へ出て、門前をぐるぐる駈《か》け回《まわ》って歩きたくなった。夜はしんとしていた。寝ている人も起きている人もどこにもおりそうには思えなかった。宗助は外へ出る勇気を失った。じっと生きながら妄想《もうぞう》に苦しめられるのはなお恐ろしかった。
 彼は思い切ってまた新らしい線香を立てた。そうしてまたほぼ前《ぜん》と同じ過程を繰り返した。最後に、もし考えるのが目的だとすれば、坐って考えるのも寝て考えるのも同じだろうと分別した。彼は室の隅《すみ》に畳んであった薄汚ない蒲団《ふとん》を敷いて、その中に潜《もぐ》り込んだ。すると先刻《さっき》からの疲れで、何を考える暇もないうちに、深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚《さ》めると枕元の障子がいつの間にか明るくなって、白い紙にやがて日の逼《せま》るべき色が動いた。昼も留守《るす》を置かずに済む山寺は、夜に入っても戸を閉《た》てる音を聞かなかったのである。宗助は自分が坂井の崖下《がけした》の暗い部屋に寝ていたのでないと意識するや否《いな》や、すぐ起き上がった。縁へ出ると、軒端《のきば》に高く大覇王樹《おおさぼてん》の影が眼に映った。宗助はまた本堂の仏壇の前を抜けて、囲炉裏《いろり》の切ってある昨日《きのう》の茶の間へ出た。そこには昨日の通り宜道の法衣《ころも》が折釘《おりくぎ》にかけてあった。そうして本人は勝手の竈《かまど》の前に蹲踞《うずく》まって、火を焚《た》いていた。宗助を見て、
「御早う」と慇懃《いんぎん》に礼をした。「先刻《さっき》御誘い申そうと思いましたが、よく御寝《おやすみ》のようでしたから、失礼して一人参りました」
 宗助はこの若い僧が、今朝夜明がたにすでに参禅を済まして、それから帰って来て、飯を炊《かし》いでいるのだという事を知った。
 見ると彼は左の手でしきりに薪《まき》を差し易《か》えながら、右の手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様子であった。宗助は宜道に書物の名を尋ねた。それは碧巌集《へきがんしゅう》というむずかしい名前のものであった。宗助は腹の中で、昨夕《ゆうべ》のように当途《あてど》もない考《かんがえ》に耽《ふけ》って脳を疲
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